え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
[1]
[2]
最も典型的な物語を考える場合、「葛藤」と「冒険」と「勝利」及び(或いは)「別離」が考えられるのではないか。
「葛藤」とは、すなわち命題提起であり、何らかの問題に直面し判断を迫られる事である。
苦しい立場にあったり、何かを解決しなければならなかったり、疑問を投げかけられる事だ。
「冒険」とは、何か新しい環境に身を置く事だ。
それは自ら繰り出す事もあれば、向うからやって来る場合もあるが、どちらにせよ新しい事態に突入し、かいくぐることだ。
「勝利」すれば、その全てを乗り越えて命題を解決し、全体を皆あるべき状態に戻し(もしくは引き上げて)、最も中心にいる者が名誉やプライドを回復、或いは獲得し、栄光とともに穏やかさに戻る事だ。
「別離」すれば、何かを手に入れる為か、もしくは全てを失うかして、どちらにせよ失いたくないものを失うことになる。
典型的であるが故、最も平凡でもあり、最も安心できる物語になるだろう。
古い物語や、子供の為の物語は、こう言った形式を大いに踏襲していると思われる。
とはいえ、これらには物語である以上は何らかのかかわりをもたざるをえないものだとも思われる。
これらの説の先達は、まずアリストテレスである。
「葛藤」とは、すなわち命題提起であり、何らかの問題に直面し判断を迫られる事である。
苦しい立場にあったり、何かを解決しなければならなかったり、疑問を投げかけられる事だ。
「冒険」とは、何か新しい環境に身を置く事だ。
それは自ら繰り出す事もあれば、向うからやって来る場合もあるが、どちらにせよ新しい事態に突入し、かいくぐることだ。
「勝利」すれば、その全てを乗り越えて命題を解決し、全体を皆あるべき状態に戻し(もしくは引き上げて)、最も中心にいる者が名誉やプライドを回復、或いは獲得し、栄光とともに穏やかさに戻る事だ。
「別離」すれば、何かを手に入れる為か、もしくは全てを失うかして、どちらにせよ失いたくないものを失うことになる。
典型的であるが故、最も平凡でもあり、最も安心できる物語になるだろう。
古い物語や、子供の為の物語は、こう言った形式を大いに踏襲していると思われる。
とはいえ、これらには物語である以上は何らかのかかわりをもたざるをえないものだとも思われる。
これらの説の先達は、まずアリストテレスである。
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一般に印欧語族と言う場合は、インド古語からギリシア語からラテン語などの共通の祖語を持っている人々の事を言う。
仏典とヒッタイト神話とギリシア神話と北欧神話と聖書とが、遠い親戚の言葉で書かれていると思うとなにやらん奇妙な感じがする。
バベルの塔ではないが、てんでんばらばら散り散りにならなかったら一つの言語を共有して、「話せばわかる」という世界になったかな?などと平和な妄想でもしてみたくなるが、これは実際的でない話。
ただの妄想だ。
残念ながら、日本は中国からの影響が大であり、中国は印欧語圏ではない。
三蔵法師がインドから仏典を持ってきて翻訳なさってくださったわけだが、折角ならサンスクリット語の教科書も書してくだされば、更によかったのだが。
ところで、言語には構造がある。
その構造に乗っ取って文章化される。
「単語」だけで会話が出来ないではないが、それでは正確さを欠くし概念的なものの説明は非常に難しい。
壁画であれ絵文字であれボディランゲージであれ、命題的で順序の必要な説明は難しいものだ。
というか、ほとんど出来ない。
命題的と言うのは、まずA項を設定して、そのAがBの状態なり性質なりであることを提示し、故にCであると説明すること、だと考えてよい。
一般、洞窟壁画が「宗教画」か「絵画」か「絵文字」か色々と説はあるが、少なくとも「絵文字」だとするなら全体の秩序だって文章化されていないかぎりは、単語の集まりと言う事だ。
文章化されているようなら、それは「寓意画」でもあることになる。
「絵文字」から「寓意画」になるためには文章化が必要で、文章化ということは鑑賞者もその文章がどういう構造になってるか知らなければならない。
共通コードの上に立ってこそ、文章は作られ解読されるのだろう。
印欧祖語がある構造を持っているのなら、そこから派生した語派はそれぞれ独自ながらも互いに相似た構造を持っているのだろうか?
もしそうなら、それは「方言」に近くはないか?
方言は、同型言語の中の地方形態を言う。
根幹は同じだが、枝葉末節が少し違う……要するに構造は一緒だけど、単語が違うと言う事だ。
名古屋弁で「みゃあみゃあ」言われても栃木弁で「だべだべ」言われても、基本的に問題になるのが「単語」と「イントネーション」だ。
言語構造は一緒だから、翻訳は意味の擦り合わせだけで十分である。
文字情報として載せる場合には、これはとても面白い。
構造的には同じだから、その点では問題はないが、イントネーションが問題だ。
現代の日本語は所謂「標準語」の五十四文字で表記をするのだが、アクセントやイントネーションはなかなか文字化できない。
それから「ぁ」と「ぅ」の中間の音だったりすると、これもまた文字化出来ない。
兎角、方言は文字化しにくいものなのだ。
そこで翻って、テレビの『字幕』なんかを見てみたら、また面白い。
例えば、インドネシアの田舎の田舎にでも行って漁師のオヤジに話を聞いたりしてみよう。
『最近は、魚の数も減ったよ。温暖化の所為さ』
などと字幕では出るかもしれないが、むしろ雰囲気では
『こんとかぁ、さかんもかかんネェだ。あちくなってからよ』
と言った訛り字幕の方があうのかもしれない。
しかし……これは多いに問題がある……私はあえて訛らせてみたが、これは本当は全く正しくないのだ。
というのも、方言と言うのはある特定の言語の亜種であるからだ。
私が方言風に翻訳した物は、あくまでも「日本語の方言」を参考にしたもので、『日本語の方言』と『インドネシア語の方言』は対応の関係ではない。
両者の関係は『標準語ではない』という類似項があるにすぎない。
『インドネシアの標準でない言葉』に対して『日本の標準でない言葉』を「〜でない」という事に注目して方言を割りふったに過ぎない。
と言う事は、『インドネシアの方言』そのものが翻訳されたわけではないのである。
もし翻訳するとなると、標準語で翻訳した方が正しいのは正しい。
しかし、それでは方言の方言たる枝葉末節のヴァリエーションが消えてしまう。
基本的には、方言は方言らしさを残したまま翻訳できないと言う事になる。
仏典とヒッタイト神話とギリシア神話と北欧神話と聖書とが、遠い親戚の言葉で書かれていると思うとなにやらん奇妙な感じがする。
バベルの塔ではないが、てんでんばらばら散り散りにならなかったら一つの言語を共有して、「話せばわかる」という世界になったかな?などと平和な妄想でもしてみたくなるが、これは実際的でない話。
ただの妄想だ。
残念ながら、日本は中国からの影響が大であり、中国は印欧語圏ではない。
三蔵法師がインドから仏典を持ってきて翻訳なさってくださったわけだが、折角ならサンスクリット語の教科書も書してくだされば、更によかったのだが。
ところで、言語には構造がある。
その構造に乗っ取って文章化される。
「単語」だけで会話が出来ないではないが、それでは正確さを欠くし概念的なものの説明は非常に難しい。
壁画であれ絵文字であれボディランゲージであれ、命題的で順序の必要な説明は難しいものだ。
というか、ほとんど出来ない。
命題的と言うのは、まずA項を設定して、そのAがBの状態なり性質なりであることを提示し、故にCであると説明すること、だと考えてよい。
一般、洞窟壁画が「宗教画」か「絵画」か「絵文字」か色々と説はあるが、少なくとも「絵文字」だとするなら全体の秩序だって文章化されていないかぎりは、単語の集まりと言う事だ。
文章化されているようなら、それは「寓意画」でもあることになる。
「絵文字」から「寓意画」になるためには文章化が必要で、文章化ということは鑑賞者もその文章がどういう構造になってるか知らなければならない。
共通コードの上に立ってこそ、文章は作られ解読されるのだろう。
印欧祖語がある構造を持っているのなら、そこから派生した語派はそれぞれ独自ながらも互いに相似た構造を持っているのだろうか?
もしそうなら、それは「方言」に近くはないか?
方言は、同型言語の中の地方形態を言う。
根幹は同じだが、枝葉末節が少し違う……要するに構造は一緒だけど、単語が違うと言う事だ。
名古屋弁で「みゃあみゃあ」言われても栃木弁で「だべだべ」言われても、基本的に問題になるのが「単語」と「イントネーション」だ。
言語構造は一緒だから、翻訳は意味の擦り合わせだけで十分である。
文字情報として載せる場合には、これはとても面白い。
構造的には同じだから、その点では問題はないが、イントネーションが問題だ。
現代の日本語は所謂「標準語」の五十四文字で表記をするのだが、アクセントやイントネーションはなかなか文字化できない。
それから「ぁ」と「ぅ」の中間の音だったりすると、これもまた文字化出来ない。
兎角、方言は文字化しにくいものなのだ。
そこで翻って、テレビの『字幕』なんかを見てみたら、また面白い。
例えば、インドネシアの田舎の田舎にでも行って漁師のオヤジに話を聞いたりしてみよう。
『最近は、魚の数も減ったよ。温暖化の所為さ』
などと字幕では出るかもしれないが、むしろ雰囲気では
『こんとかぁ、さかんもかかんネェだ。あちくなってからよ』
と言った訛り字幕の方があうのかもしれない。
しかし……これは多いに問題がある……私はあえて訛らせてみたが、これは本当は全く正しくないのだ。
というのも、方言と言うのはある特定の言語の亜種であるからだ。
私が方言風に翻訳した物は、あくまでも「日本語の方言」を参考にしたもので、『日本語の方言』と『インドネシア語の方言』は対応の関係ではない。
両者の関係は『標準語ではない』という類似項があるにすぎない。
『インドネシアの標準でない言葉』に対して『日本の標準でない言葉』を「〜でない」という事に注目して方言を割りふったに過ぎない。
と言う事は、『インドネシアの方言』そのものが翻訳されたわけではないのである。
もし翻訳するとなると、標準語で翻訳した方が正しいのは正しい。
しかし、それでは方言の方言たる枝葉末節のヴァリエーションが消えてしまう。
基本的には、方言は方言らしさを残したまま翻訳できないと言う事になる。
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