え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
おひさ。
というわけで最近読んだほんの読書感想文であります。
ブッツァーティ「神を見た犬」
ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」
ボルヘス「砂の本」
宮沢賢治「風の又三郎」
ラディゲ「肉体の悪魔」
以下、ネタバレ有りだぜ。
というわけで最近読んだほんの読書感想文であります。
ブッツァーティ「神を見た犬」
ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」
ボルヘス「砂の本」
宮沢賢治「風の又三郎」
ラディゲ「肉体の悪魔」
以下、ネタバレ有りだぜ。
ディーノ・ブッツァーティ『神を見た犬』
光文社の新訳ということでブッツァーティの短編集を読んでみた。
どれほどの日本人がブッツァーティを知っているかはわからないが、寡聞にして自分は知らなかった。なんでも『イタリアのカフカ』の異名を取っているらしい。
いわゆる魔術的リアリズムの作家で、魔術的リアリズムとは非現実的な出来事と現実的な出来事が混在している、なおかつ、それが神話や童話などの語法を用いないで自然主義的に……平べったく言うと、あくまで現在の現実を描く書き方で現実と非現実の混在を描く……と言ったところの作家だ。
内容に関しては短編なので一々あげるのは面倒だ。必要とあらば取り上げるとして、全体の雰囲気や総体として感じたことを中心に感想を言うことにしよう。
『イタリアのカフカ』とは良く言ったものだ。
確かに作者が否定しようと「カフカという名の十字架を負っている」と嘆こうと、離れ難くその影が見える。いや、或いは僕達がその影を感得しているだけで、本当に作者は意識していないのかもしれない。
作者の意志と作品それ自体は必ず同一というわけではないのだ。
だが僕と、また多くの読者と作者との繋がりはほとんどその作品しかない。作品を通してしか彼のことを知る事が出来ない。だとしたら、その作品にカフカ的な影を感じてしまえば、彼をカフカ的なものをもった人物だとみなすのは不当ではあるまい。
彼がカフカ的であろうが無かろうがどうでも良い、と言うかも知れない。しかし僕にはどうでも良いことじゃない、僕も彼がカフカ的だと感じたから。
極表面的な事柄(文章に表面より更に下があるとして、だが)なのかもしれないが、彼の文学には濃厚に『不安』の要素が感じられる。
その不安感が一種の本能的な恐怖感と常につながっているように感じる。
ある意味では子供のそれだ。
「もし、こうなってしまったらどうしよう」と思い悩む子供の恐怖感だ。
それは現実の法則や理性の鎖をものともしない。
「誰もいないところを一人で歩いていて、突然宇宙人に誘拐されたらどうしよう」と考える子供は奇妙な考えに取り憑かれているのだろうか?
しかし、この子供は「人知れず攫われる」という恐怖ゆえにこういう「もし……」を考えたに過ぎない。
宇宙人であることは偶々だ。
或いは「隣の家の番犬が夜中抜け出して僕の家のまわりをうろついて僕を狙っていたら」とか「もし書いている日記が知らないうちにみんなに読まれていたら」とか考える時の恐怖感。
隣家の門が硬く封鎖されていても、日記を抽き出しの奥に入れて鍵をかけていても、こういう恐怖は消えはしない。理性はそう強力な助っ人になりはしない。
ブッツァーティの小説にはそういう『不安』がある。
それはカフカにも共通してあったものだ。
特にブッツァーティが機構や機関といったものの複雑さ、不透明さを扱ってその『不安』を表した時にはどうしたってカフカの影響を感じないわけにはいかない。
例えば「七階」という作品は、それ自体の素晴らしさは言うべくも無いが、それでもカフカの親戚のような感じを僕に思わせる。
主人公は入院する。
その病院は階層ごとにわけられており、七階は病気とは言えない程の軽い病人達、一階下がるごとに病いは重くなり、二階は最重病人、一階はほぼ死を待つ人々。
主人公はある手違いで七階から六階へ降ろされる。
彼には恐怖と自尊心がある。俺は『七階の人間』だ、という自尊心と、六階へ降ろされてしまった、という恐怖心。
彼はどういうわけか、次々に階を下がることになってしまう。
そして遂に一階にまで到達する。
物語に複雑さは無い。
彼は一直線に落ちていく。
だが、彼を取り巻く環境や彼が落ちていく過程の不気味で巨大な機構はなんだろう。なんだが不鮮明だ。『運命』のように人間の力が及ばない。
主人公はオイディプスのように恐れ戦いて抗うがただ落ちていくしか無い。
「七階」や「戦艦《死(トード)》」のような不安な作品も少なくはないが、彼の作品はそう言った物語ばかりでもない。
これはカフカとは全然違うところだ。彼はカフカではない。
まるきり寓話のような話もあれば、聖人が登場する話も少なくない。
その聖人と言うのが、まるで仙人のようでもある。
或いは「神」がなんだか物質のように溢れたりこぼれたりすることもある。
気の効いたエスプリがあり、オチがあり、ストーリーテリングは単純に楽しめる。星新一のようなおもむきさえある。
ここらへんは短編の名手らしい上手さだ。
才気走ってストーリーを不可解にすることは無い、どの作品もストーリーは極めてわかりやすい形でまとめられ、かつ楽しめる。
オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』
再読。今更ストーリーを言う必要も無いだろう。
極めて単純で簡単なストーリーだ。
ドリアン……美貌の青年。
彼が、モデルになったひとつの絵がある。画家は彼に思いを寄せていた。魂を賭けた絵にドリアンは自分の美しさに気付き、ヘンリー卿という逆説の名家、放蕩児、デカダンスへの水先案内人に感化されてこう願う「もし絵のほうが年を取り、自分が永遠に若く美しいままだったら!」
そしてどういうわけかその通りになる。
彼はいつまでも若く美しくある。
だが、絵は彼が罪を犯したり年を取ったりするたびに醜くなっていく。
彼はその絵を隠し、罪にその身を染め上げ永遠の青春を謳歌する。
遂に画家を殺してしまう。
ラストは知っての通りだ、彼は絵と対峙する、そしてその醜い良心の権化を切り刻もうとする。
鋭い叫びが聞こえて使用人が見てみると、美しいドリアンの絵の前に醜い男が胸にナイフを刺した格好で倒れていた。
ヘンリー卿という逆説ばかり言うスノッブが出てくる。
この男は決して悪く書かれない、どころかドリアンにとっての師となり濃密な友情の対象になる。
根っからの貴族でデカダンスかくあらんと言った人物だが、どうも僕は彼をワイルドの分身のように見てしまった。
画家バジルには現実のモデルがあるようだしドリアンにも現実のモデルがあるようだ、となればヘンリー卿もと思わずにはいられない。
大体ヘンリー卿の流麗いや流れるような言葉の調子には慣れたものが見える気がする、苦心惨憺逆説や警句をひねっていると言うよりは、慣れたゲームをしなおすようにさえ見える。
恐らくヘンリー卿はワイルドであろうし、ワイルドがヘンリー卿を悪くは書かなかったのはそういうことだろう。
時折、「警句ばかりひねって」などと言われるヘンリー卿だが、それさえも一種の自嘲じみた自慢に見える。自分を軽く打って誇らかな笑顔を見せる態だ。
それにしても、この小説はストーリーよりは警句が充満している。ある面で、説教臭い教養小説と同じ臭いがする。説教的な小説は教訓を言葉にすることに心を砕いて物語を矮小にさせてしまうが、それと似ている。
常に「説教」のほうが溢れ出てしまう。
ドリアングレイにもその気配はあった。
ついつい言葉遊び……とはいえ、それが優れていることは間違いないが……に筆が走る。
そういう意味では特殊な小説である。
決して物語の筋に耽溺すると言う形ではないが、思想的小説と言うには連発される警句や逆説が軽々しい、スノビズムの典型のようですらある。
にもかかわらずおもしろい。
いや、このヘンリー卿の警句の軽薄さが一種の気分を作っている。小説自体をうさんくさくさせている。
そして、このうさんくささの気分に何か脅迫的とさえ思える圧力があるのだ。
デカダンスという刹那主義は、あらん限りの才気を振り絞って、否定を繰り返し、「世界に深度は無く表層に過ぎない」とさえ喝破するように見える。
ドリアンの肖像だって、如何に立体感のある素晴らしい作品だろうと、たかだか布の上に書かれたうすっぺらな絵である。
裏には何も無い。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』
当然のようにボルヘスを魔術的リアリズムの作家だと思ってきたのだが、どうも彼は所謂魔術的リアリズムと言う言葉が出る以前にその態度を決めていて、いわば「プレ・マジックリアリズム」の作家のようである。
しかし、それ自体はどうということない。
僕にはボルヘスがマジカルかどうかと言うよりも彼が非常にブッキシュであるということが重要に思う。
例えば、外の世界をほとんど知らないまま部屋の中で延々本を読んで過ごした人間に取って『世界』は我々が知っているような形をしているとはかぎらない。
ジェニーハニヴァーという人魚の出来損ないのようなものが存在していても何も不思議に思えないかもしれない。
事柄は何かハッキリとした筋立てを持って起こるものだと思っているかも知れない。
そういう人間が、リアリズムを標榜して書いたとしても絶対に現実的になるわけがないのだ。
いや、これは一般的な「リアリズム」なる言葉に関しての評言にもなるだろう。
現代の現実をリアリスティクに捕えたと思い込み、またリアリスティクだと評価したとしても、実際には作者が経験した世界と作者の筆を通してみたリアリズムで、即座に現実的かと言うとそうではない。
別にボルヘスがそういう人間だったと言うわけじゃない。
ただ、先んじてボルヘスのブッキシュを否定しようと言うリアリストに言葉を投げただけだ。
彼のブッキシュは「本」あるいは「文字」「物語」「文章」「文学」というものは何か、という自己言及である。
小説によって小説の話をする、と言った態だし、作者によって作者の嘘が嘘によって暴かれる、といった態だ。
まるで洞窟の外に出たら別の形の洞窟に気付いた者のようだ。
円構造をボルヘスに観る人がいる。
これは僕も賛成だ。
しかし、数学的円構造というよりは、どこかピタゴラス教団的な円構造な気がする。導きだされた完全さというよりは完全さを目指して導いていく感じだ。
だから神秘的な感じはする。
その好悪はそれぞれ読者に託されるとして、ボルヘスの小説にまつわるその雰囲気は否が応でも感じると思う。
魔術的、というものは決して不透明な降霊会の一場面ではなく、数学の行き着く先がまるで人知を越えてしまった瞬間に似ている。
人間は言語を持った故に神を持ったのではないか?
人間は言語を持った故に非現実を知ってしまったのではないか?
芸術家達が、絵画の自立性の為に現実をそのまま写さなくなったのと似ている。
絵画は現実から出発する必要は無い。
絵画は絵画から出発して絵画に帰着すれば良いのだ。
結果として、何の形も表しもしない「抽象絵画」となった。
そのようにしてではないが、ボルヘスも文学から出発して文学に帰着したように見える。
極めて理性的でありながら、理性は遂に魔術に変わる。
宮沢賢治『風の又三郎』
短編集。
風の又三郎、なめとこ山の熊、ガドルフの百合、が秀作。
常に『童話』という手法である。
「ですます」を使う。
性的な描写は無い。
一種の教訓を含んでいる(それが子供にはっきり感得できるかどうかはさておいて)。
宮沢賢治は鉱物や科学に興味があったのだろう、モリブデンやニッケルという言葉が使われる。それがなにか不思議な魔法の道具にように聞こえる。
同時にまた硬質な美しいものにも見える。
これは自然物の、カオスじみた多く夾雑物を含みながら豊か、と言うものとは違う。
純粋で、なんらかの効果や効能が期待される、ギラギラした光る物体なのだ。
自然の豊かな不純に比べればまさに魔法のように純粋なのだ。
ところで又三郎だが、彼は一体なにものだったのだろう。
風の神のおとし子のようにも見える(子供達はそう思っていた)。
だが、ただ別の土地から来た子供ようにも描かれている(教師はそう思っている)。
この曖昧な少年は、風を操っているようにも見える。
だが、偶然風が吹いただけのようにも見える。
この不思議な少年と子供達の心の感じは、それこそ原石を手に入れた子供達のような感じだ。
子供は「自然の申し子」のようであるが又三郎は「自然自体」のようであり、子供はそこに深く興味や恐怖を抱きながら距離を計ったり計りかねたりしている。
そして陶酔している。
「なめとこ山の熊」はほとんど悲劇的な作品だ。
猟師は山の中でこそ、獲物である熊にも尊敬され友愛さえ抱かれているが、町へ降りると実に弱い人間に戻って、商人にやり込められてしまう。
彼の死に場所は山しか残っていない。
そうだ、彼が死のは町の雑踏ではなく、山の中のほうがいい。
誰だってそう思うだろう。
一人の尊厳のある男の師がそう惨めであってはならない、と良心がむせぶのであれば。
「ガドルフの百合」は稲光と百合がみせる幻想の小説である。
これは読んでもらうより無い。
言葉を尽くしても空転するし、人によっては甚だ空疎な小説に見えるかも知れない。
レイモン・ラディゲ『肉体の悪魔』
わずか十六から十八の少年が書いたと言うだけでも驚きだが、それにしてもこの出来はたいしたものだ。
神童とは言わないが早熟なことは確かである。
話としてはそう難しいことは無い。
一人の少年(十五から六にかけての)が三つ年上の女性に恋をして彼女が人妻になっても関係を保ち、遂に子供が生まれると言う話だ。
ストーリーは各自の判断に任せるとして、シーンの描写のきめ細やかさ、的確さ、影の深さは光っている。
最後にちょこんと警句をおきながら、これほど深刻な心理描写を二十歳以前の少年がしたのかと思うとやはり驚嘆する。
少年期の終わりにある極端に肥大した自我と恋愛のエゴイズムが刻々と黒いペンで刻み込まれている。一体、ラディゲはそう言う時期をもう過ぎ去ってしまったのだろうか。自分がまだそう言う時期にあったらとてもでないが書けはしまい。
書いたとしても大仰な自虐で悦に入り、甘ったるい言葉を第一級の詩と信じきっているに違いない。
主人公はエゴイズムが強い。
そしてそのエゴイズムを肯定する。
恋愛は相互のエゴイズムだと思っている。
だが、一人称で書かれるその文章の性質なのか、どうも彼のエゴイズムだけしか見えてこない。
いみじくも彼自身が言うように「子供はつねにいいわけを用意している」というような感じがする。
彼はなんども一時的な情熱で思考する、そして考えを翻す。
自分では翻したとは思わない。
いや、翻したとしても翻したことを肯定する。
だが恋愛におけるこうしたエゴイズムは特殊だろうか?
極めて一般的に思う。
全体の話自体はそれなりに特殊(というのは少年が人妻と関係するということだが)だとしても、彼が行った行動と言うのは別段特殊ではない。
ホテルに入る勇気がなくてうろうろして、良いわけばかりを探し求めて女性を疲弊させるなんてことは誰にだってありそうなことだ。
わざわざ怒ったり辛く当たったり無関心を装ったりして彼女の気を自分に集めようと言う方法は、まるで子供のように見えるかも知れないがなべて男と言うのはそう言う行動をとりがちだ。
その点では、この小説は決して特殊ではない。
どの男にもありそうなことが書いてある。
ただその的確なことに憤りを感じることはあるだろうけど。
まったく、男性と言うのは自我が肥大しやすい上に、恋愛が絡むとすぐに癇癪を起こしたり勘ぐったり寛容になったりするものだ。
ただ、ラディゲは甘い言葉は避けている。
大体の場合、それこそ歯の浮く三流の恋愛小説でも言わないようなくだらないキメ台詞は何度も……かたちをかえて何度も確認するように言ったりするものだが、彼はそう言う部分は書かなかった。
これは中々効果的だ。
文章を引き締める。
だらだらと続く甘い言葉だとか自己憐憫だとか悲劇の謳歌だとかは退屈なものだ。
ただラストだけは承服しかねた。
主人公はマルトと言うその人妻を妊娠させてしまったが、マルトは死んでしまい最終的に旦那のほうが自分の子だと思い込む。神は都合よく世界を作っていると締めくくる。
この最終場面は完全に失敗のように思われた。
まるで小説を終わらせる為に慌てて付け足したようだ。
とりあえずは大団円ってとこだ。
まず、今までずっと掘り当ててきた心理的な陰影が最後のこのクライマックスにいたってさっぱり輝きが無い。
当時のラディゲは自分の経験の中からしかかけない作家だったのであろうか。
彼が実際に体験しなかった恋人の死と子供については甚だ曖昧でいい加減なかきように見える。
とりあえず女が死んで子供も引き取られる、となれば彼はそれまでの事件からはさっぱり決別できるのである。
それは一種の救いだ。
おそらくマルトが生き残って子供が生まれていたら、苦しみは形を変えてより複雑になっていったろう。
作者は主人公に事件から手を引くようにしむけてしまった。
しかも強引なみえすいた遣り方で。
この部分については、流石に僕も良いとは言い兼ねる。
光文社の新訳ということでブッツァーティの短編集を読んでみた。
どれほどの日本人がブッツァーティを知っているかはわからないが、寡聞にして自分は知らなかった。なんでも『イタリアのカフカ』の異名を取っているらしい。
いわゆる魔術的リアリズムの作家で、魔術的リアリズムとは非現実的な出来事と現実的な出来事が混在している、なおかつ、それが神話や童話などの語法を用いないで自然主義的に……平べったく言うと、あくまで現在の現実を描く書き方で現実と非現実の混在を描く……と言ったところの作家だ。
内容に関しては短編なので一々あげるのは面倒だ。必要とあらば取り上げるとして、全体の雰囲気や総体として感じたことを中心に感想を言うことにしよう。
『イタリアのカフカ』とは良く言ったものだ。
確かに作者が否定しようと「カフカという名の十字架を負っている」と嘆こうと、離れ難くその影が見える。いや、或いは僕達がその影を感得しているだけで、本当に作者は意識していないのかもしれない。
作者の意志と作品それ自体は必ず同一というわけではないのだ。
だが僕と、また多くの読者と作者との繋がりはほとんどその作品しかない。作品を通してしか彼のことを知る事が出来ない。だとしたら、その作品にカフカ的な影を感じてしまえば、彼をカフカ的なものをもった人物だとみなすのは不当ではあるまい。
彼がカフカ的であろうが無かろうがどうでも良い、と言うかも知れない。しかし僕にはどうでも良いことじゃない、僕も彼がカフカ的だと感じたから。
極表面的な事柄(文章に表面より更に下があるとして、だが)なのかもしれないが、彼の文学には濃厚に『不安』の要素が感じられる。
その不安感が一種の本能的な恐怖感と常につながっているように感じる。
ある意味では子供のそれだ。
「もし、こうなってしまったらどうしよう」と思い悩む子供の恐怖感だ。
それは現実の法則や理性の鎖をものともしない。
「誰もいないところを一人で歩いていて、突然宇宙人に誘拐されたらどうしよう」と考える子供は奇妙な考えに取り憑かれているのだろうか?
しかし、この子供は「人知れず攫われる」という恐怖ゆえにこういう「もし……」を考えたに過ぎない。
宇宙人であることは偶々だ。
或いは「隣の家の番犬が夜中抜け出して僕の家のまわりをうろついて僕を狙っていたら」とか「もし書いている日記が知らないうちにみんなに読まれていたら」とか考える時の恐怖感。
隣家の門が硬く封鎖されていても、日記を抽き出しの奥に入れて鍵をかけていても、こういう恐怖は消えはしない。理性はそう強力な助っ人になりはしない。
ブッツァーティの小説にはそういう『不安』がある。
それはカフカにも共通してあったものだ。
特にブッツァーティが機構や機関といったものの複雑さ、不透明さを扱ってその『不安』を表した時にはどうしたってカフカの影響を感じないわけにはいかない。
例えば「七階」という作品は、それ自体の素晴らしさは言うべくも無いが、それでもカフカの親戚のような感じを僕に思わせる。
主人公は入院する。
その病院は階層ごとにわけられており、七階は病気とは言えない程の軽い病人達、一階下がるごとに病いは重くなり、二階は最重病人、一階はほぼ死を待つ人々。
主人公はある手違いで七階から六階へ降ろされる。
彼には恐怖と自尊心がある。俺は『七階の人間』だ、という自尊心と、六階へ降ろされてしまった、という恐怖心。
彼はどういうわけか、次々に階を下がることになってしまう。
そして遂に一階にまで到達する。
物語に複雑さは無い。
彼は一直線に落ちていく。
だが、彼を取り巻く環境や彼が落ちていく過程の不気味で巨大な機構はなんだろう。なんだが不鮮明だ。『運命』のように人間の力が及ばない。
主人公はオイディプスのように恐れ戦いて抗うがただ落ちていくしか無い。
「七階」や「戦艦《死(トード)》」のような不安な作品も少なくはないが、彼の作品はそう言った物語ばかりでもない。
これはカフカとは全然違うところだ。彼はカフカではない。
まるきり寓話のような話もあれば、聖人が登場する話も少なくない。
その聖人と言うのが、まるで仙人のようでもある。
或いは「神」がなんだか物質のように溢れたりこぼれたりすることもある。
気の効いたエスプリがあり、オチがあり、ストーリーテリングは単純に楽しめる。星新一のようなおもむきさえある。
ここらへんは短編の名手らしい上手さだ。
才気走ってストーリーを不可解にすることは無い、どの作品もストーリーは極めてわかりやすい形でまとめられ、かつ楽しめる。
オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』
再読。今更ストーリーを言う必要も無いだろう。
極めて単純で簡単なストーリーだ。
ドリアン……美貌の青年。
彼が、モデルになったひとつの絵がある。画家は彼に思いを寄せていた。魂を賭けた絵にドリアンは自分の美しさに気付き、ヘンリー卿という逆説の名家、放蕩児、デカダンスへの水先案内人に感化されてこう願う「もし絵のほうが年を取り、自分が永遠に若く美しいままだったら!」
そしてどういうわけかその通りになる。
彼はいつまでも若く美しくある。
だが、絵は彼が罪を犯したり年を取ったりするたびに醜くなっていく。
彼はその絵を隠し、罪にその身を染め上げ永遠の青春を謳歌する。
遂に画家を殺してしまう。
ラストは知っての通りだ、彼は絵と対峙する、そしてその醜い良心の権化を切り刻もうとする。
鋭い叫びが聞こえて使用人が見てみると、美しいドリアンの絵の前に醜い男が胸にナイフを刺した格好で倒れていた。
ヘンリー卿という逆説ばかり言うスノッブが出てくる。
この男は決して悪く書かれない、どころかドリアンにとっての師となり濃密な友情の対象になる。
根っからの貴族でデカダンスかくあらんと言った人物だが、どうも僕は彼をワイルドの分身のように見てしまった。
画家バジルには現実のモデルがあるようだしドリアンにも現実のモデルがあるようだ、となればヘンリー卿もと思わずにはいられない。
大体ヘンリー卿の流麗いや流れるような言葉の調子には慣れたものが見える気がする、苦心惨憺逆説や警句をひねっていると言うよりは、慣れたゲームをしなおすようにさえ見える。
恐らくヘンリー卿はワイルドであろうし、ワイルドがヘンリー卿を悪くは書かなかったのはそういうことだろう。
時折、「警句ばかりひねって」などと言われるヘンリー卿だが、それさえも一種の自嘲じみた自慢に見える。自分を軽く打って誇らかな笑顔を見せる態だ。
それにしても、この小説はストーリーよりは警句が充満している。ある面で、説教臭い教養小説と同じ臭いがする。説教的な小説は教訓を言葉にすることに心を砕いて物語を矮小にさせてしまうが、それと似ている。
常に「説教」のほうが溢れ出てしまう。
ドリアングレイにもその気配はあった。
ついつい言葉遊び……とはいえ、それが優れていることは間違いないが……に筆が走る。
そういう意味では特殊な小説である。
決して物語の筋に耽溺すると言う形ではないが、思想的小説と言うには連発される警句や逆説が軽々しい、スノビズムの典型のようですらある。
にもかかわらずおもしろい。
いや、このヘンリー卿の警句の軽薄さが一種の気分を作っている。小説自体をうさんくさくさせている。
そして、このうさんくささの気分に何か脅迫的とさえ思える圧力があるのだ。
デカダンスという刹那主義は、あらん限りの才気を振り絞って、否定を繰り返し、「世界に深度は無く表層に過ぎない」とさえ喝破するように見える。
ドリアンの肖像だって、如何に立体感のある素晴らしい作品だろうと、たかだか布の上に書かれたうすっぺらな絵である。
裏には何も無い。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』
当然のようにボルヘスを魔術的リアリズムの作家だと思ってきたのだが、どうも彼は所謂魔術的リアリズムと言う言葉が出る以前にその態度を決めていて、いわば「プレ・マジックリアリズム」の作家のようである。
しかし、それ自体はどうということない。
僕にはボルヘスがマジカルかどうかと言うよりも彼が非常にブッキシュであるということが重要に思う。
例えば、外の世界をほとんど知らないまま部屋の中で延々本を読んで過ごした人間に取って『世界』は我々が知っているような形をしているとはかぎらない。
ジェニーハニヴァーという人魚の出来損ないのようなものが存在していても何も不思議に思えないかもしれない。
事柄は何かハッキリとした筋立てを持って起こるものだと思っているかも知れない。
そういう人間が、リアリズムを標榜して書いたとしても絶対に現実的になるわけがないのだ。
いや、これは一般的な「リアリズム」なる言葉に関しての評言にもなるだろう。
現代の現実をリアリスティクに捕えたと思い込み、またリアリスティクだと評価したとしても、実際には作者が経験した世界と作者の筆を通してみたリアリズムで、即座に現実的かと言うとそうではない。
別にボルヘスがそういう人間だったと言うわけじゃない。
ただ、先んじてボルヘスのブッキシュを否定しようと言うリアリストに言葉を投げただけだ。
彼のブッキシュは「本」あるいは「文字」「物語」「文章」「文学」というものは何か、という自己言及である。
小説によって小説の話をする、と言った態だし、作者によって作者の嘘が嘘によって暴かれる、といった態だ。
まるで洞窟の外に出たら別の形の洞窟に気付いた者のようだ。
円構造をボルヘスに観る人がいる。
これは僕も賛成だ。
しかし、数学的円構造というよりは、どこかピタゴラス教団的な円構造な気がする。導きだされた完全さというよりは完全さを目指して導いていく感じだ。
だから神秘的な感じはする。
その好悪はそれぞれ読者に託されるとして、ボルヘスの小説にまつわるその雰囲気は否が応でも感じると思う。
魔術的、というものは決して不透明な降霊会の一場面ではなく、数学の行き着く先がまるで人知を越えてしまった瞬間に似ている。
人間は言語を持った故に神を持ったのではないか?
人間は言語を持った故に非現実を知ってしまったのではないか?
芸術家達が、絵画の自立性の為に現実をそのまま写さなくなったのと似ている。
絵画は現実から出発する必要は無い。
絵画は絵画から出発して絵画に帰着すれば良いのだ。
結果として、何の形も表しもしない「抽象絵画」となった。
そのようにしてではないが、ボルヘスも文学から出発して文学に帰着したように見える。
極めて理性的でありながら、理性は遂に魔術に変わる。
宮沢賢治『風の又三郎』
短編集。
風の又三郎、なめとこ山の熊、ガドルフの百合、が秀作。
常に『童話』という手法である。
「ですます」を使う。
性的な描写は無い。
一種の教訓を含んでいる(それが子供にはっきり感得できるかどうかはさておいて)。
宮沢賢治は鉱物や科学に興味があったのだろう、モリブデンやニッケルという言葉が使われる。それがなにか不思議な魔法の道具にように聞こえる。
同時にまた硬質な美しいものにも見える。
これは自然物の、カオスじみた多く夾雑物を含みながら豊か、と言うものとは違う。
純粋で、なんらかの効果や効能が期待される、ギラギラした光る物体なのだ。
自然の豊かな不純に比べればまさに魔法のように純粋なのだ。
ところで又三郎だが、彼は一体なにものだったのだろう。
風の神のおとし子のようにも見える(子供達はそう思っていた)。
だが、ただ別の土地から来た子供ようにも描かれている(教師はそう思っている)。
この曖昧な少年は、風を操っているようにも見える。
だが、偶然風が吹いただけのようにも見える。
この不思議な少年と子供達の心の感じは、それこそ原石を手に入れた子供達のような感じだ。
子供は「自然の申し子」のようであるが又三郎は「自然自体」のようであり、子供はそこに深く興味や恐怖を抱きながら距離を計ったり計りかねたりしている。
そして陶酔している。
「なめとこ山の熊」はほとんど悲劇的な作品だ。
猟師は山の中でこそ、獲物である熊にも尊敬され友愛さえ抱かれているが、町へ降りると実に弱い人間に戻って、商人にやり込められてしまう。
彼の死に場所は山しか残っていない。
そうだ、彼が死のは町の雑踏ではなく、山の中のほうがいい。
誰だってそう思うだろう。
一人の尊厳のある男の師がそう惨めであってはならない、と良心がむせぶのであれば。
「ガドルフの百合」は稲光と百合がみせる幻想の小説である。
これは読んでもらうより無い。
言葉を尽くしても空転するし、人によっては甚だ空疎な小説に見えるかも知れない。
レイモン・ラディゲ『肉体の悪魔』
わずか十六から十八の少年が書いたと言うだけでも驚きだが、それにしてもこの出来はたいしたものだ。
神童とは言わないが早熟なことは確かである。
話としてはそう難しいことは無い。
一人の少年(十五から六にかけての)が三つ年上の女性に恋をして彼女が人妻になっても関係を保ち、遂に子供が生まれると言う話だ。
ストーリーは各自の判断に任せるとして、シーンの描写のきめ細やかさ、的確さ、影の深さは光っている。
最後にちょこんと警句をおきながら、これほど深刻な心理描写を二十歳以前の少年がしたのかと思うとやはり驚嘆する。
少年期の終わりにある極端に肥大した自我と恋愛のエゴイズムが刻々と黒いペンで刻み込まれている。一体、ラディゲはそう言う時期をもう過ぎ去ってしまったのだろうか。自分がまだそう言う時期にあったらとてもでないが書けはしまい。
書いたとしても大仰な自虐で悦に入り、甘ったるい言葉を第一級の詩と信じきっているに違いない。
主人公はエゴイズムが強い。
そしてそのエゴイズムを肯定する。
恋愛は相互のエゴイズムだと思っている。
だが、一人称で書かれるその文章の性質なのか、どうも彼のエゴイズムだけしか見えてこない。
いみじくも彼自身が言うように「子供はつねにいいわけを用意している」というような感じがする。
彼はなんども一時的な情熱で思考する、そして考えを翻す。
自分では翻したとは思わない。
いや、翻したとしても翻したことを肯定する。
だが恋愛におけるこうしたエゴイズムは特殊だろうか?
極めて一般的に思う。
全体の話自体はそれなりに特殊(というのは少年が人妻と関係するということだが)だとしても、彼が行った行動と言うのは別段特殊ではない。
ホテルに入る勇気がなくてうろうろして、良いわけばかりを探し求めて女性を疲弊させるなんてことは誰にだってありそうなことだ。
わざわざ怒ったり辛く当たったり無関心を装ったりして彼女の気を自分に集めようと言う方法は、まるで子供のように見えるかも知れないがなべて男と言うのはそう言う行動をとりがちだ。
その点では、この小説は決して特殊ではない。
どの男にもありそうなことが書いてある。
ただその的確なことに憤りを感じることはあるだろうけど。
まったく、男性と言うのは自我が肥大しやすい上に、恋愛が絡むとすぐに癇癪を起こしたり勘ぐったり寛容になったりするものだ。
ただ、ラディゲは甘い言葉は避けている。
大体の場合、それこそ歯の浮く三流の恋愛小説でも言わないようなくだらないキメ台詞は何度も……かたちをかえて何度も確認するように言ったりするものだが、彼はそう言う部分は書かなかった。
これは中々効果的だ。
文章を引き締める。
だらだらと続く甘い言葉だとか自己憐憫だとか悲劇の謳歌だとかは退屈なものだ。
ただラストだけは承服しかねた。
主人公はマルトと言うその人妻を妊娠させてしまったが、マルトは死んでしまい最終的に旦那のほうが自分の子だと思い込む。神は都合よく世界を作っていると締めくくる。
この最終場面は完全に失敗のように思われた。
まるで小説を終わらせる為に慌てて付け足したようだ。
とりあえずは大団円ってとこだ。
まず、今までずっと掘り当ててきた心理的な陰影が最後のこのクライマックスにいたってさっぱり輝きが無い。
当時のラディゲは自分の経験の中からしかかけない作家だったのであろうか。
彼が実際に体験しなかった恋人の死と子供については甚だ曖昧でいい加減なかきように見える。
とりあえず女が死んで子供も引き取られる、となれば彼はそれまでの事件からはさっぱり決別できるのである。
それは一種の救いだ。
おそらくマルトが生き残って子供が生まれていたら、苦しみは形を変えてより複雑になっていったろう。
作者は主人公に事件から手を引くようにしむけてしまった。
しかも強引なみえすいた遣り方で。
この部分については、流石に僕も良いとは言い兼ねる。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
ツイッター
夢占い出来るです キーワード入れてくだしあ
カレンダー
05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
orzorzorzorzorzorz
orzorzorzorzorzorz
プロフィール
HN:
くら
性別:
男性
趣味:
映画、音楽、文学。と至って普通の趣味。 ああ、あと最近は自転車レースも好き
最新記事
(12/02)
(11/18)
(11/04)
(10/21)
(10/07)
カテゴリー
ブログ内検索
最新トラックバック