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え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
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【哲学】
動詞。または形容動詞。
名詞ではない。
哲学とはある状態や活動の事を指している言葉である。

タレスが夜空ばかりを見ていて溝に落ちたと言う話は示唆的である。
「あんたは遠い星のことはわかるらしいが、自分の足元のことはわからないんだね」
「そう。でも足元のことを知ろうとしたら、遠い星の事を諦めなければならないね。ところで、自分の足元の事は自分にしか関係がないから誰かに伝えるような事柄じゃないし誰の為にもならない。天空の事情の事は自分以外の人にも関係があるし誰かに伝えたら役に立つだろうね」
「それでやり返したつもり?」
「いいや、俺はまだ哲学活動の続きをしているだけ」
彼は溝の中からまだ這い出さないで、そう言った。

【思想】
一般的には、生き方や人間としての立場に関する考察。
つまり、各々の足元。
学問上では、解剖され検死され冷凍保存された哲学的成果。
つまり、直感の屍骸。

【思想家】
自分について喋りたい人。
自分についてだけ喋りたい人。

【哲学者】
『哲学の学者』か『哲学する者』かのどちらか。
前者は学生に悩みを提供し、後者は全人類に悩みを提供しようと躍起になっている。
故に、前者は学生に鬱陶しがられ、後者はほぼ全ての人に鬱陶しがられる。
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【剣】
この漢字は主に両刃のものを指す。片刃のものは「刀」の字を用いる事が多い。

こいつはペンとしては甚だ大きく使いづらい。
かといって料理に用いるにも甚だ大きく使いづらい。
大工仕事には脆すぎるし、猟にもさっぱり適さない。
天秤棒にしたら肩が切れる。
農具としてやっても鎌にも鍬にも見劣りがする。
だから、結局、生きた人の肉を斬るくらいの仕事しか無い。

【テーブルナイフ】
剣の子供。
まだまだ練習で死んだ肉を斬っている。

【ペーパーナイフ】
悪い知らせではありませんように、という思いが込められている。
しかし、彼にはどうでもいい。
鈍い野郎だ。
ビアスにならいて、あるいはルナールに。
しばらくパソコン上の作業を放っておこうと思ったが、思いついたことや気付いたことをメモするのに楽なので結局使うことにする。
できるだけ、毎日三十分程度に決めて面白いのが出来たら良いと思う
二匹目の泥鰌を狙うという言葉は、それ自体で既に「失敗」を意味しているらしい。
ついさっき知った事だ。
「一匹目が釣れたからと言って、二匹目が釣れるとは限らない」
「柳の木の下で一度泥鰌を捕らえたことがあったからといって、いつもそこに泥鰌がいるとは限らない。一度まぐれ当たりの幸運を得たからといって、再度同じ方法で幸運が得られると思うのは間違いである」
のだそうである。
大体『守株』に近い意味だろうか。
『馬鹿の一つ覚え』にも近そうだ。

そういえば、先年か先々年に『国家の品格』という本がベストセラーになって、「品格」なる言葉が巷間に聞かれる様になった。
やれやれだな。
大道廃れて仁義あり、と言った感を思えざるを得ない。
とはいえ品性なり品格なりと言う事が評価されるのは、それなりに良い事だからあまり水を注すべきではないだろう。
先年だったはずだが、『女性の品格』と『親の品格』なる本も出ていた。
著者は『国家〜』の藤原某ではない。
内容は知らないが、どうだろうこのタイトル。
どちらが先に出したのだか知らないが、僕はあまりこれが品のあるタイトルだと、要するに「二匹目の泥鰌を狙って」いるようなタイトルだと見えてしまう。
まあ、二匹目の泥鰌は失敗する予定なのだが、普段からこういった本に疎い僕が知っている以上売れ行きは上々なんだろう。
むしろ「二番煎じ」ってことか。
何にせよ、最近売れまくった本のタイトルをパロディするようなのは、あんまり品のあるやり方じゃあない。

しかし、この守株主義と言うか、あやかろうという遣り方は品性云々ではなく、「あこがれ」というものでもあるような気がする。
往々にして、人が何かを始める時は「真似る」ことから始める。
それを学習といいかえてもいい。
勿論、制作ということであっても、なんの隔てなく「真似る」という行為は行なわれる。
オリジナリティなどというものとはまた別の問題で、「真似る」ことは人間本来に備わってる能力だから、避けようのないことだ。
「自分もああいうのが造りたい」とか。
「あの作品は自分を表現している」とか。
どう言う場合であれ、憧れや真似ということは、二番煎じであることと似ている。
例文 『彼は、手が8本だった』

言葉には色々と情報が含まれている……と、されている。
しかし、これは正しくない。
言葉に情報を“含ませている”と言った方が正しい。

我々は『彼』という言葉を見た時に、大体こう思う。
「人間、男、他者」
heに当たる人物を想像する。
この先入見を、もう少し分析すると「人間の男」を既に知っているところから話が始まる。
「人間の男」とは何か? というところからは、始まってはいない。
既に「人間の男」と言う認識の上に成り立っている……というのはどう言う事か?
「人間の男」と言うのは、外見的には腕が二本あって、二本の足で直立歩行が出来る生物だ。
中心からほぼ左右対称の形をしている。
大体、全体のタテヨコが5:1くらいの比率だ。
頭には眼が二つ、鼻は二つ穴が開いていて、その下に口が一つ、両側に耳が二つ。
それから……
と、この説明は延々と続く。
しかし、これは説明をしているようで説明にはなっていないのではないか?
だって「腕」や「足」や「頭」なんかという人間に由来する名詞を用いているのだから。
今度は「腕」や「足」の説明をしなければならない。
こうなると、絶えず“本質”の周りを細分化を重ねながらぐるぐる回っているだけになってしまう。
我々が「彼」と言うとき、もうおおよその抽象化はされている。
どんな顔か体型かは知らないが、「人間」と「男」ということは知っている。
経験にせよ先見にせよ、抽象化はされているらしい。
ということは、『言葉』というのは、そもそも抽象化する事そのものであるようだ。

しかしこの「、」というのはなんだろう?
ちょっと引用をしてみたい

 私たちは、文の終りに「。〔句点〕」、文中の区切りには「、〔読点〕」を使って文章を書いている。しかし、このような使い方が定着したのは明治三九年、文部大臣官房図書課が『句読法案』を発表してからのことである。

 飛田良文 1992 『東京語成立史の研究』
                    』
句読点研究会HPから孫引き。
「、」は西洋の書式に倣って導入されたものである。
文章に厳密さをもたらすためでもある。
しかし、これは文章にリズムをもたらし、呼吸の間をもたらしもした。
ちょっと例えに描写してみよう。
 「奥の間のテレビに蛍光灯のぼんやりと影が映えて潰れた画面がかえって明るいような暗いような妙な調子になっているテーブルの黒い塗り箸は使い込まれてといって五年に満たない新物であるが散々齧られて光沢もなく影よりも暗い」
我家の様子である。
これはこれで読めない事もないが、読点を用いると語のリズムが変わるはずだ。
 「奥の間の、テレビに蛍光灯のぼんやりと影が、映えて潰れた画面がかえって明るいような暗いような妙な調子になっている、テーブルの黒い塗り箸は使い込まれて、といって、五年に満たない新物であるが、散々、齧られて光沢もなく影よりも、暗い」
これはどういうことだろう。
私は文章中のリズムをコントロールした事になる。
文章は専ら頭の中で詠われているものだ。
ある調子でもって「音読」しているのが普通だ。
「、」は音読のリズムを変える事ができるから、それそのものは単に自立して言語化はされないけれども言語的に作用するもののようだ。
「!」や「?」も同じだ。
後から海外を倣って取り入れられたものだとは言え、これは音読性という文章の必然に十分な必要をもっている。

で、「手が8本だった」
「彼」は人間の男じゃあないのだろうか?
これは一体、何の間違いだ?
まずはちょっと自分の手を見て頂きたい。……
見ましたか?
一体、どこを見ましたか?
掌なんじゃないですか?
そうでしょう?私が言いたかったのは、「彼には指が8本しかない」という事だったんです。
これは間違いか?
間違いだとしたらどこが間違っているのだろう?
私は理屈として「人は手と言われた時に掌を見る→手と掌は同義→常識的に考えて腕が8本あるはずはない→故に指が8本だと思うだろう」と考えた。
この理屈自体が間違っているとは思わない。
しかし、「通じなかった」だろう。
どうやら言語による抽象化のプロセスは、普遍的ではないらしい。
私の抽象化と一般の抽象化は対応していないのだ。
言葉が抽象化作業を行なう場合、決して世界に対応して抽象化作業を行なっているわけではなく、あくまで自分の中だけで行なわれているようだ。
そうするとこの抽象化作業によって「言語化する=人に伝えようとする」のは、実際には自己内完結でしかなく、人に伝わっているとは必ずしも言えない。
しかし、この話は現実的じゃない。
私が「8」と書けば、「ああ、8」とその数字が意味するところは伝わっているように見える。
これは伝わっているのか?
伝わっていないのか?
言語によっても我々が自己内完結しか出来ないという前提があるなら伝わっていないということになる。
しかし、相手も「ああ」と言い、同じ認識を得るらしいとなれば、どうやら相関関係はあるらしいのだ。
私の「8」が他者に伝わっているわけでないが、他者の中に「8」という観念を呼び起こす役にはたっているらしい。
注意しなければならないのは、彼我の「8」は、同じものが伝わったわけでないということだ。
あくまで彼の中の「8」を呼び起こしただけ。
林檎に代えて例えたほうが良かっただろう。
彼の林檎と私の林檎は同じ「林檎」という名詞だが、彼の持っている林檎と私の持っている林檎は別のサイズと形と存在であるだ。

言語に含まれているらしい、数々の了解は我々の認識にあたっている。
これは文章を書く上で重大な問題だ。
昔からモーパッサンの短編が大の好物で、ほとんど自分の中の文学の端緒をそこに求めたいくらいだった。
実際にはぼんやりとほぐれた糸口が次第にあざなわれ、なにか形作っているのだろう。
細々した何かが堆積して行って土台になっているのだ。
決して一つの物が最下層で地盤を為しているわけではないと思う……何かが基盤を為していると言うのは、今ここに立って地面の中を透視して言っているのに等しい。
透視なんぞできるか?
いいや。
ただ思い込んでいるに過ぎない。
ともあれ、モーパッサンだ……。

「水の上」、という短編がある。
彼の短編が好きだと言ったが、もっと限定して言えば、怪談が好きなのだった。
とりわけ僕が未だに覚えているのが、こういう話だ。

二人の青年がいる。
一人の少女がいる。
夏だ、ルノアールが描くような夏だった、帽子が紫色の影で目深く覆い肌が白く照り返る。
そこには川がある。
遊覧船のようなボートだ、サンドウィッチ、葦間から蒸気がたまらない匂いをあげる、川面が光る。
うららかな日だった。

……
さて、これ以上覚えていない。
確か死体が出てくるのだ、いや、この少女が死んでしまうのだったか。
うららかな夏の、どうかすると川面から蒸気が立ち昇る日射しが、無気味だった。
何故死んでしまうのか?
いや、そもそも誰が死ぬのか?
話のオチは?
そこらへんがまったく覚えていない。
ただ、その情景と水の中の死体がいやに無気味に思い出されるのだ。
いったい、自分は何を読んだのだろうか。
思い返してモーパッサンの怪奇短編集をつまみ読みしたのだが、そんなのは何処にもないのだった。
「水の上」という話はあった。
ただそれは年をくった男が夜に怪奇にあう話だ。
じゃあ、自分は何を見たのだろう。
夢か?
それとも記憶の混乱か?
それはそれでいいのだ、記憶が混乱していても、自分にとっては何か印象の深い体験に返るのだったら。
もう詮索しない方がよいのかもしれない。
素敵な幻は、そのまま残しておいたほうがいいのかもしれない。
時に「湯ぼぼ酒まら」等と言うそうだ。
褥をより良く過ごすためのアドバイスである。
湯に入った後の女と酒を呑んだ男が、どうしてより良い楽しみを得られるのだろう。
一つは血流である。
どちらも体温が上がり血の巡りが良くなる。
承知の通り、性器の周辺は血管が重要な……特に男性諸氏は先刻承知の通り、海綿体に血液が流れ込んで勃起するのであるから、納得してもらえそうだ。
女性も“しまり”が良くなり感じやすくなるそうな。
また一つは、筋肉が適度に弛緩することもあろう。
それからリラックスした雰囲気……勿論、たんなる雰囲気ではなく神経系に直接原因があるのだが、それも含めて……事がスムーズに楽しく行なわれるのだろう。
更には、酒には大脳偏縁系を麻痺させて理性を後退せしめ、活動を活発にする。
野性的なというか本能的なというか、力強い“突き”が打てるわけである。
ところで、男性の場合だが、確かに適度の飲酒は血流を促すだろうが、過度の飲酒はかえって萎えさせてしまう。
また、飲み過ぎで運動をすると宵が回りやすい。
ある程度無酸素運動だから、血がグッと頭に昇って頭痛を起こすかもしれないから、程々に。

それで思い出したのが、旧約中にあるロトの物語。
これは御存知の方も多かろうから、おおまかに話を見てみるが--かの有名なソドムとゴモラから話が始まる。
ロトはそこに住んでいたのだ。
で、悪徳の街に天罰、すなわち硫黄の火が降り注ぎ、ロト達は逃げ、ロトの妻は振り返ってしまったために塩の柱に変わってしまう。
逃げおおせたのは、ロトと二人の娘。
洞窟である。
さて、この娘達だが「どうしたものかしら……」と心配事がある様子。
「どうやって血を守ることができるだろう」
つまり、二人の娘達はこのままでは血が絶えるてしまうのではないかと心配しているわけだ。
それで一計、ある夜父に酒を呑ませて酔い潰し……ま、見事御懐妊と相成るわけである。
余談ながら、二人の娘が産んだのが後にモアブ人とアンモン人になり、イスラエルの民に虐げられたり悪役を仰せつかったりするわけである。
さて、このロトであるが、泥酔したとなると果たしてちゃんと“勃った”のだろうか?
どうも酔い“潰れて”から、というのが気になる。
酔い加減も過度に理性の障壁を吹っ飛ばしたなら、勢いあまって犯してしまったというのも、無いとは言えまい。
しかし、潰れた。
すなわち、ロトから挑みかかったわけではない……ちらりと上述したが、勃起は血中アルコール濃度と微妙な関係があり、酔い潰れて寝ている男は、往々にして勃起しないのではないかと思われる。
あくまで仮説なのだが、寝ているロトはフニャチンだったのではないか?
原則として、女性は強姦が出来ない(強姦を性器と性器の結合に限って言う場合であるが)。
つまり、男性が勃起しなければ、いくら女性が挑みかかっても成立し得ない。
女性から挑まれて男性器が屹立した時点で、ある意味で和姦である。
ということはどう言うことであろうか?
ロトは酔い潰れてふにゃふにゃになっていたはず、上に過度の飲酒は触覚を麻痺させる、勿論寝ているから視覚や聴覚の刺激は直接的には有り得ない。
不成立の要素が多すぎる。
なに、解決は簡単だ。
ロトが酔い潰れたふりをしていれば良いのである。
娘達の計画を事前に知っていたロトは、酔ったふりをして、産めよ増やせよ地に満てよと励んだ、と。

まぁ、そんな話はさておいて、酒と言えば「ワカメ酒」なるものが有名だ。
女性を仰向けに寝かせるか、正座をさせる。
ぴったりと閉じた股に清酒を注ぐと、陰毛がワカメの様に見える、温度は人肌、“出汁”が出るなんていう人もいるだろうか、ともあれそう言うものだ。
あまり年増だとワカメばかりで飲み難いったらありゃしない。
できれば十四五の生え揃わない、産毛等が残り、少しの地肌が白く赤く見えたら良い。
そのワカメ酒にうってつけの酒がある。
古来の方法で「口嚼酒(くちかみのさけ)」なるものがあるそうだ。
これは日本の方法である。
麹を使わずに、「米を口で嚼んで……米の澱粉に唾液中の消化酵素(この場合は糖化酵素)が作用してぶどう糖が生じ、これを壺の中に吐き溜めておくと、空気中に浮遊している醗酵力のある酵母が自然にこれに侵入してぶどう糖をアルコールに変えてしまう原理である。」《以上、引用 小泉武夫著「酒の話》
本朝では遂にこれは受け継がれなかった、麹が発見されたからである。
しかし、台湾や沖縄ではつい何十年か前まで、五六の少女がこの方法で酒を醸し、祭礼の際に用いていたそうである。
これは、なんともいえない。
デ・ゼッサントだってこの酒の音を知らぬだろう。
シュナミティズムといって若い処女と添い寝する方法があるのだが、これは専ら精気を回復するためであり交合の歓楽のためではない。
言ってみれば処女の若いオーラを吸収するわけだ。
この口嚼酒は、勿論美しい処女が嚼んで醸すのが良いだろう。
特別若い美しい少女達を余分な菌がつかぬ様に綺麗な所に保管しておき、その甘ったるい唇と白い歯で白い米をよく嚼ませ、白い壺に溜めて作るのが良い。
それはただの酒ではなく、若い処女のオーラで充填されていると考えたくなってしまう。
一種の薬酒である。
口嚼酒でワカメ酒、如何ですか?
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プロフィール
HN:
くら
性別:
男性
趣味:
映画、音楽、文学。と至って普通の趣味。 ああ、あと最近は自転車レースも好き
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