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例文 『彼は、手が8本だった』

言葉には色々と情報が含まれている……と、されている。
しかし、これは正しくない。
言葉に情報を“含ませている”と言った方が正しい。

我々は『彼』という言葉を見た時に、大体こう思う。
「人間、男、他者」
heに当たる人物を想像する。
この先入見を、もう少し分析すると「人間の男」を既に知っているところから話が始まる。
「人間の男」とは何か? というところからは、始まってはいない。
既に「人間の男」と言う認識の上に成り立っている……というのはどう言う事か?
「人間の男」と言うのは、外見的には腕が二本あって、二本の足で直立歩行が出来る生物だ。
中心からほぼ左右対称の形をしている。
大体、全体のタテヨコが5:1くらいの比率だ。
頭には眼が二つ、鼻は二つ穴が開いていて、その下に口が一つ、両側に耳が二つ。
それから……
と、この説明は延々と続く。
しかし、これは説明をしているようで説明にはなっていないのではないか?
だって「腕」や「足」や「頭」なんかという人間に由来する名詞を用いているのだから。
今度は「腕」や「足」の説明をしなければならない。
こうなると、絶えず“本質”の周りを細分化を重ねながらぐるぐる回っているだけになってしまう。
我々が「彼」と言うとき、もうおおよその抽象化はされている。
どんな顔か体型かは知らないが、「人間」と「男」ということは知っている。
経験にせよ先見にせよ、抽象化はされているらしい。
ということは、『言葉』というのは、そもそも抽象化する事そのものであるようだ。

しかしこの「、」というのはなんだろう?
ちょっと引用をしてみたい

 私たちは、文の終りに「。〔句点〕」、文中の区切りには「、〔読点〕」を使って文章を書いている。しかし、このような使い方が定着したのは明治三九年、文部大臣官房図書課が『句読法案』を発表してからのことである。

 飛田良文 1992 『東京語成立史の研究』
                    』
句読点研究会HPから孫引き。
「、」は西洋の書式に倣って導入されたものである。
文章に厳密さをもたらすためでもある。
しかし、これは文章にリズムをもたらし、呼吸の間をもたらしもした。
ちょっと例えに描写してみよう。
 「奥の間のテレビに蛍光灯のぼんやりと影が映えて潰れた画面がかえって明るいような暗いような妙な調子になっているテーブルの黒い塗り箸は使い込まれてといって五年に満たない新物であるが散々齧られて光沢もなく影よりも暗い」
我家の様子である。
これはこれで読めない事もないが、読点を用いると語のリズムが変わるはずだ。
 「奥の間の、テレビに蛍光灯のぼんやりと影が、映えて潰れた画面がかえって明るいような暗いような妙な調子になっている、テーブルの黒い塗り箸は使い込まれて、といって、五年に満たない新物であるが、散々、齧られて光沢もなく影よりも、暗い」
これはどういうことだろう。
私は文章中のリズムをコントロールした事になる。
文章は専ら頭の中で詠われているものだ。
ある調子でもって「音読」しているのが普通だ。
「、」は音読のリズムを変える事ができるから、それそのものは単に自立して言語化はされないけれども言語的に作用するもののようだ。
「!」や「?」も同じだ。
後から海外を倣って取り入れられたものだとは言え、これは音読性という文章の必然に十分な必要をもっている。

で、「手が8本だった」
「彼」は人間の男じゃあないのだろうか?
これは一体、何の間違いだ?
まずはちょっと自分の手を見て頂きたい。……
見ましたか?
一体、どこを見ましたか?
掌なんじゃないですか?
そうでしょう?私が言いたかったのは、「彼には指が8本しかない」という事だったんです。
これは間違いか?
間違いだとしたらどこが間違っているのだろう?
私は理屈として「人は手と言われた時に掌を見る→手と掌は同義→常識的に考えて腕が8本あるはずはない→故に指が8本だと思うだろう」と考えた。
この理屈自体が間違っているとは思わない。
しかし、「通じなかった」だろう。
どうやら言語による抽象化のプロセスは、普遍的ではないらしい。
私の抽象化と一般の抽象化は対応していないのだ。
言葉が抽象化作業を行なう場合、決して世界に対応して抽象化作業を行なっているわけではなく、あくまで自分の中だけで行なわれているようだ。
そうするとこの抽象化作業によって「言語化する=人に伝えようとする」のは、実際には自己内完結でしかなく、人に伝わっているとは必ずしも言えない。
しかし、この話は現実的じゃない。
私が「8」と書けば、「ああ、8」とその数字が意味するところは伝わっているように見える。
これは伝わっているのか?
伝わっていないのか?
言語によっても我々が自己内完結しか出来ないという前提があるなら伝わっていないということになる。
しかし、相手も「ああ」と言い、同じ認識を得るらしいとなれば、どうやら相関関係はあるらしいのだ。
私の「8」が他者に伝わっているわけでないが、他者の中に「8」という観念を呼び起こす役にはたっているらしい。
注意しなければならないのは、彼我の「8」は、同じものが伝わったわけでないということだ。
あくまで彼の中の「8」を呼び起こしただけ。
林檎に代えて例えたほうが良かっただろう。
彼の林檎と私の林檎は同じ「林檎」という名詞だが、彼の持っている林檎と私の持っている林檎は別のサイズと形と存在であるだ。

言語に含まれているらしい、数々の了解は我々の認識にあたっている。
これは文章を書く上で重大な問題だ。
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