え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
随分書いていなかったので久々に。
と言え、書く事があるわけじゃあないのです。
とりあえず、一行でも書こうと言うだけで。
雰囲気も変えてね、軽々しい感じで。
あまりこだわらない方向へ変えて行こうと思う。
そんなかんじで。
と言え、書く事があるわけじゃあないのです。
とりあえず、一行でも書こうと言うだけで。
雰囲気も変えてね、軽々しい感じで。
あまりこだわらない方向へ変えて行こうと思う。
そんなかんじで。
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復古神道というものがある。
竹内巨麿の天津教や出口王仁三郎、出口ナオの大本教などが有名だが、いわゆる教派神道というのは十三ほどあるらしい。
復古神道とは何か? といえば、極単純に還元してしまうと新興宗教ということができる。
ただし、その主張の根本に「より古く」「より本源的」な神を「見出す」或いは「復活させる」というようなところがあり、それが復古神道と言われる所以である。
我々の知っている神道は、専ら皇系の神道とも言う事が出来る。
天の主宰神をアマテラス神とし、天孫が降臨したことに日本の統治が始まるという伝説、国津神の国譲り、神武東征、天皇を中心とする統治を語る物語が記紀神話のベースにある。
しかし、こういった政治的な神話以前に土地に坐しました地主神がいたのも事実で、記紀はこれを「国津神」と称して習合しようとしたが、実際には神話と整合性を欠いた行事や伝説が残ってしまうものである。
天理教の教祖中山みきに帰神した天理王命などは土地の神、天孫以前の神の雰囲気が残っている。ちなみに天理教が幕末に興った事も興味深いが、それは後ほどに回そう。
さて、神道の時代はどれほどのものだったのかと言えば、早くも奈良朝に聖徳太子と蘇我馬子が大陸から仏教をわたらせて来た事を考えねばならぬ。
神道には天国や地獄、霊魂、などは特別語られない。教義と言ったものがない。
言ってみれば信心と儀式(形式)が神道の全てなのである。実にフォルマリスティックな思想は、ロジックに妥当される運命になっている。
仏教、また大陸伝来の陰陽五行説などは、ロジカルで付け入る隙がない。うたたねの夢を覚まされた形で神道は慌てて御所に隠れることになる。
無論、聖徳太子が大陸とのつながりをもったのは存分に政治的行動である。
一つは強力な力を持った後見人をつくること、もう一つは物部氏中臣氏を退ける事である。
物部氏中臣氏は伝統的に祭祀の一族だったのである。
この政治的な操作によって、神道は仏教や陰陽道のタームで自分達のことを始める事になる。
後に神仏習合が起こると、本地垂迹説、すなわち、神々は仏の仮の姿であるということになわけだが、これは神道が仏教の下におかれた事を意味した。
そして幕末。
仏教伝来と同じような外来のプレッシャーが再び現れた。太平の眠りはまたも覚まされる。
この時期に、本居宣長や平田篤胤などが為した事を見てみよう。
彼等は「日本的なるもの」「源日本」を探求した。
仏教や陰陽道、民間信仰などが絡み付いた神道を、綺麗にすすいで神道自体のアイディンティティーを確立させようとした。
それはまた日本人自体のアイディンティティーの証明でもあった。
日本人はアプリオリに日本人たるか?
外圧と反発の緊張した弁証法で、神道の言語による神道論が起こり、より根源的な神を探し求めることになる。
明治期に国家神道として長年の連れ合いと引き離されて、神社は統一される。
社格を儲けられて、一つの日本の象徴として屹立“させられる”ことになるのである。
現在の神道は紆余曲折を経て、ここまで来たわけである。
合体と分離の繰り返しは原型を壊すに十分であった、また外圧によって自己自身を屹立させる必要に迫れた。
これは個人の事情にも十分帰せられよう。
「体験」とは、新しく来る何物かと合体する事であり、何かを失って分離して行く事である。自己自身の変形が「体験」と呼ばれうる。
また、強烈なピンチを突き付けられると、人は己自身の存在証明をしきりに求める。自己自身を問い、自らを由しとする是認を求めるものである。
それは日本人に関わらず誰でもそうであろう。
さて、復古神道というのは、独自の「伝承」や「来歴」を語る(文化人類学者も似たように日本人の来歴をかたることがある)。
プレッシャーの中で生まれた源日本感は、必然的に日本の是認をとらざるをえない、故に日本が世界最古の国家にならざるを得ない。
何故なら、世界は日本の神々が作ったからである。
これはこのままなら良いのだが、戦争に引き合いに出されると「宗教は単なる自己肯定の方便になる」ことを明かす。
すなわち、世界天皇という発想、八紘一宇という思想である。
我々は時に壁に突き当たり「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という文言を読むことがある。
そして、ルーツへの信頼と興味を沸き立たせる。
不思議と我々はルーツや「源〜」と言ったものに信頼感を持っている。
個人に翻して考えてみるとわかりやすい。
例えば、立ち止まった時に「自分は最初何がしたかったのか?」と問う事がある。いや、多い。
あるいは「本来の自分」といった「源自分」に対する信頼がある。
現代美術が多様と意味の拡散を始めた時に、コスースが画面に文字を書き、河原温が日付を記し、もの派が物体との距離を測定し出す。これも「絵画の原理とはなにか」という回帰的発想である。
またバタイユやレヴィ・ストロースが洞窟画から「原初、絵画とは何だったのか?」という研究を始める。
原初的人間……アダム・カドモンを、我々は何故か人間の本質と結びつけたがる。
「人間とは何か?」と「原初的人間とはどんなものだったのか?」という発想がシノニムになっている。
しかし、それは本当にそうなのだろうか?
我々はエデンを想定している様にすら見える、あるいは神による人間創造を。
因果関係は人間が各々の事象を時間の形式によって結合したものである。だから、過去は遡れば畢竟ゼロか無限に至らざるをえない。
つまり、終極が神か無かにならなければならない。
我々に「過去」があるように、過去には過去の「過去」がある。
一見、端緒にみえるアルタミラやラスコー壁画も、当時の人間にとってはなんらかの過去の集積かもしれない。「かつて、人はこうであった」ということを求めても、それは本質に至る道とは少し色が違う様に思われる。
しかし、例えば復古神道や近代魔術はそれを是認し、始祖を崇める。
これは始発点は完全だったと言う発想である。或いは、過ぎた過去は永久に破れない夢であるという発想である。
実に魔術的発想だ。
私は、ルーツを求めることや本質を問う時に起きる原初に対する信頼に魔術的な発想が誰しもあるのではないかと思う。
竹内巨麿の天津教や出口王仁三郎、出口ナオの大本教などが有名だが、いわゆる教派神道というのは十三ほどあるらしい。
復古神道とは何か? といえば、極単純に還元してしまうと新興宗教ということができる。
ただし、その主張の根本に「より古く」「より本源的」な神を「見出す」或いは「復活させる」というようなところがあり、それが復古神道と言われる所以である。
我々の知っている神道は、専ら皇系の神道とも言う事が出来る。
天の主宰神をアマテラス神とし、天孫が降臨したことに日本の統治が始まるという伝説、国津神の国譲り、神武東征、天皇を中心とする統治を語る物語が記紀神話のベースにある。
しかし、こういった政治的な神話以前に土地に坐しました地主神がいたのも事実で、記紀はこれを「国津神」と称して習合しようとしたが、実際には神話と整合性を欠いた行事や伝説が残ってしまうものである。
天理教の教祖中山みきに帰神した天理王命などは土地の神、天孫以前の神の雰囲気が残っている。ちなみに天理教が幕末に興った事も興味深いが、それは後ほどに回そう。
さて、神道の時代はどれほどのものだったのかと言えば、早くも奈良朝に聖徳太子と蘇我馬子が大陸から仏教をわたらせて来た事を考えねばならぬ。
神道には天国や地獄、霊魂、などは特別語られない。教義と言ったものがない。
言ってみれば信心と儀式(形式)が神道の全てなのである。実にフォルマリスティックな思想は、ロジックに妥当される運命になっている。
仏教、また大陸伝来の陰陽五行説などは、ロジカルで付け入る隙がない。うたたねの夢を覚まされた形で神道は慌てて御所に隠れることになる。
無論、聖徳太子が大陸とのつながりをもったのは存分に政治的行動である。
一つは強力な力を持った後見人をつくること、もう一つは物部氏中臣氏を退ける事である。
物部氏中臣氏は伝統的に祭祀の一族だったのである。
この政治的な操作によって、神道は仏教や陰陽道のタームで自分達のことを始める事になる。
後に神仏習合が起こると、本地垂迹説、すなわち、神々は仏の仮の姿であるということになわけだが、これは神道が仏教の下におかれた事を意味した。
そして幕末。
仏教伝来と同じような外来のプレッシャーが再び現れた。太平の眠りはまたも覚まされる。
この時期に、本居宣長や平田篤胤などが為した事を見てみよう。
彼等は「日本的なるもの」「源日本」を探求した。
仏教や陰陽道、民間信仰などが絡み付いた神道を、綺麗にすすいで神道自体のアイディンティティーを確立させようとした。
それはまた日本人自体のアイディンティティーの証明でもあった。
日本人はアプリオリに日本人たるか?
外圧と反発の緊張した弁証法で、神道の言語による神道論が起こり、より根源的な神を探し求めることになる。
明治期に国家神道として長年の連れ合いと引き離されて、神社は統一される。
社格を儲けられて、一つの日本の象徴として屹立“させられる”ことになるのである。
現在の神道は紆余曲折を経て、ここまで来たわけである。
合体と分離の繰り返しは原型を壊すに十分であった、また外圧によって自己自身を屹立させる必要に迫れた。
これは個人の事情にも十分帰せられよう。
「体験」とは、新しく来る何物かと合体する事であり、何かを失って分離して行く事である。自己自身の変形が「体験」と呼ばれうる。
また、強烈なピンチを突き付けられると、人は己自身の存在証明をしきりに求める。自己自身を問い、自らを由しとする是認を求めるものである。
それは日本人に関わらず誰でもそうであろう。
さて、復古神道というのは、独自の「伝承」や「来歴」を語る(文化人類学者も似たように日本人の来歴をかたることがある)。
プレッシャーの中で生まれた源日本感は、必然的に日本の是認をとらざるをえない、故に日本が世界最古の国家にならざるを得ない。
何故なら、世界は日本の神々が作ったからである。
これはこのままなら良いのだが、戦争に引き合いに出されると「宗教は単なる自己肯定の方便になる」ことを明かす。
すなわち、世界天皇という発想、八紘一宇という思想である。
我々は時に壁に突き当たり「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という文言を読むことがある。
そして、ルーツへの信頼と興味を沸き立たせる。
不思議と我々はルーツや「源〜」と言ったものに信頼感を持っている。
個人に翻して考えてみるとわかりやすい。
例えば、立ち止まった時に「自分は最初何がしたかったのか?」と問う事がある。いや、多い。
あるいは「本来の自分」といった「源自分」に対する信頼がある。
現代美術が多様と意味の拡散を始めた時に、コスースが画面に文字を書き、河原温が日付を記し、もの派が物体との距離を測定し出す。これも「絵画の原理とはなにか」という回帰的発想である。
またバタイユやレヴィ・ストロースが洞窟画から「原初、絵画とは何だったのか?」という研究を始める。
原初的人間……アダム・カドモンを、我々は何故か人間の本質と結びつけたがる。
「人間とは何か?」と「原初的人間とはどんなものだったのか?」という発想がシノニムになっている。
しかし、それは本当にそうなのだろうか?
我々はエデンを想定している様にすら見える、あるいは神による人間創造を。
因果関係は人間が各々の事象を時間の形式によって結合したものである。だから、過去は遡れば畢竟ゼロか無限に至らざるをえない。
つまり、終極が神か無かにならなければならない。
我々に「過去」があるように、過去には過去の「過去」がある。
一見、端緒にみえるアルタミラやラスコー壁画も、当時の人間にとってはなんらかの過去の集積かもしれない。「かつて、人はこうであった」ということを求めても、それは本質に至る道とは少し色が違う様に思われる。
しかし、例えば復古神道や近代魔術はそれを是認し、始祖を崇める。
これは始発点は完全だったと言う発想である。或いは、過ぎた過去は永久に破れない夢であるという発想である。
実に魔術的発想だ。
私は、ルーツを求めることや本質を問う時に起きる原初に対する信頼に魔術的な発想が誰しもあるのではないかと思う。
ハリウッドの子供用の映画の構造
テーマが『家族愛』『正義』『友情』『協力』『恋愛』
ストーリーの形式『成長物語』『再発見(幸せの青い鳥)物語』
ストーリー
『ある共同体の中にいるAは他とは違う』
(劣っている、優れている、特徴がある)
『他と違う事により何らかの困難に会う。多くは共同体外へ出る』
(追い出される、何かを探しに出る)
『困難→解決(鍛練)のプロセスの繰り返しにより話が進む』
(成長、友情、自己発見、自己の証明)
『目標を達する。多くは共同体に再帰属する』
(共同体を救う、自己の力を証明する、自己を受け入れる別の共同体に入る)
備考
軸としてテーマが一貫して貫かれる。
恋愛沙汰がある。
コメディがある。
「自惚れる→失敗」
「危機一髪」がある。
ラストには一度安心させて、もう一度困難を吹っかけて解決させることがある。
よく「ぶら下がる」
キャラクターは大体タイプが決まっている。
正直者。
ライバル。
陽気で軽薄な奴。
老人型。
クール。
自惚れ屋。
悪人。
堅実な仲間。
熱血漢。
憂鬱質。
大体こんなところからマイナーチェンジとバリエーションをかえる。
テーマが『家族愛』『正義』『友情』『協力』『恋愛』
ストーリーの形式『成長物語』『再発見(幸せの青い鳥)物語』
ストーリー
『ある共同体の中にいるAは他とは違う』
(劣っている、優れている、特徴がある)
『他と違う事により何らかの困難に会う。多くは共同体外へ出る』
(追い出される、何かを探しに出る)
『困難→解決(鍛練)のプロセスの繰り返しにより話が進む』
(成長、友情、自己発見、自己の証明)
『目標を達する。多くは共同体に再帰属する』
(共同体を救う、自己の力を証明する、自己を受け入れる別の共同体に入る)
備考
軸としてテーマが一貫して貫かれる。
恋愛沙汰がある。
コメディがある。
「自惚れる→失敗」
「危機一髪」がある。
ラストには一度安心させて、もう一度困難を吹っかけて解決させることがある。
よく「ぶら下がる」
キャラクターは大体タイプが決まっている。
正直者。
ライバル。
陽気で軽薄な奴。
老人型。
クール。
自惚れ屋。
悪人。
堅実な仲間。
熱血漢。
憂鬱質。
大体こんなところからマイナーチェンジとバリエーションをかえる。
『アンテナ』とか『共鳴板』とか『鏡』と我々は言う事がある。
これは何の事かと言うと、外の世界から情報を得たり感じたりすることの“感度”や“大きさ”の事に関してだ。
外の世界と言うのは、別に身体的な経験だけじゃない。
テレビだろうが小説だろうが、夢だろうが何でもだ。
アンテナを張る、つまり、色んな物事から受信しようとする。
大きなアンテナを四方に向けていると、色んな情報が入ってくる。
これは、更に能動的な言葉でもある。
自分から進んで情報を求めに行く行為もアンテナを張ると言う事だし、極微小な情報を進んで受信して行くのも感度の良いアンテナならできる。
共鳴板と言うのは、もっと受動的だ。
アンテナがとても情報的で、例えば「興味」とか「好奇心」という事を思わせる言葉なのに対して、共鳴板と言うのはもっと「感動」とかに関係する。
もっとも、アンテナだって感動と無関係な言葉じゃないが。
共鳴板と言うのは世界の色々な出来事を自分の中でそのまま震わせる装置だ。
響きを拾って震えると言う事だ。
それから鏡と言う言葉には僕はかなり難しいと思う。
無我と言う言葉があるが、あれとも関わるんじゃないかと思う。
自分の中で世界を映し出すと言う事だ。
勿論、人間は自分の精神や認識力や身体的限界からでしか世界を見る事が出来ない。
ある意味で人間はそれぞれ自分達の鏡を通してしか世界を見ていないとも言える。
でもそういう事ではなくて、自分自体が鏡となるって事だ。
つまり、吟味する自分ではなくて単にまるごと映し出すということ。
目の前で自分の母親や恋人が自分についての酷い悪口を言っていても、それを“単純に、そのまま、映し出す”精神ということだ。
だから、そこには反省も憤怒も後悔もなく、ただ彼女達を含む世界全体が映ってるだけ。
世の中には色々な事がある。
個別的に見れば、その一つ一つが興味深い。
ただ我々はそれに慣れてしまっただけだし、慣れなければ暮らしてなんかいけないだろう。
だって、全ての人と全ての家と全ての道と全ての音に反応していたらどうなる?
まったくホワイトノイズだ。
全音域がいっぺんに鳴ったら「ザァァァ……」というノイズしか聞こえないのだ。
だから人間は適切に、時間ごとに感覚の水門を調整しているのだ。
その慣れた感覚の中で、いわば抽象化されてしまったものもある。
我々が食べている朝食だの夕食だの、あるいは何でも、実際には一食毎に味に美味い不味いがあるのだが、我々は結構それを素通りしている。
日々の食事の真剣な喜びと苦しみ……と言ったら大袈裟だけど、まあそう言ったものが慣れてしまった末に抽象的な「食事」ということに収斂されてぼやけていく。
ところで、気落ちしていたりするとアンテナや共鳴板や鏡は仕舞い込まれてしまう。
過去の事にこだわったり……要するに『反省』の状態にあるのだ。
反省というのは、とりもなおさず自分の事を考えている状態出歩、特に過去の自分の事を考えている時だ。
反省する事は良い事だ。自己対自己の瞬間だ。
しかし、あまり長い事落込んでくらい気分でいると、眼が反転して、いつまでも自分の中ばかり見ている事になる。
これはこれで問題だ。
自分の身体をヒョウタンみたいに考えると、空洞の中で反響し続けている過去の声をずっと聞いていることと言える。
しかし、よほど深く自分の空洞の中にいると不思議な事が起きる。
仕舞い切れていないアンテナが、狭い音域しか響かない共鳴板が、ほとんどが曇った鏡が、反応するのである。
深い憂愁の時間の中で、ある意味で狭く、ある意味で先鋭化された受信機は、時たま『芸術』だとかをビリビリと拾い上げる。
しかも、他の雑音は一切ない。
ただ芸術とかだけを拾い上げる。
それが真っ暗な空洞の中をストロボのように照らしあげる瞬間があるのだ。
涙ながらに彼等はそれに帰依する。
曇天から光がさす、ブレイクスルーの瞬間、エル・グレコの世界みたいな感じだ。
憂鬱が芸術に敏感にさせるのは多分本当だが、しかし単純に眼が内側に向いているだけで小型のアンテナ閉じているだけのこともある。
それは僕にはわからないことだが、しかし、新しい神が到来することを期待して憂鬱ぶるなら、それなりに感度を高めて真剣になる必要はあるかも知れない。
これは何の事かと言うと、外の世界から情報を得たり感じたりすることの“感度”や“大きさ”の事に関してだ。
外の世界と言うのは、別に身体的な経験だけじゃない。
テレビだろうが小説だろうが、夢だろうが何でもだ。
アンテナを張る、つまり、色んな物事から受信しようとする。
大きなアンテナを四方に向けていると、色んな情報が入ってくる。
これは、更に能動的な言葉でもある。
自分から進んで情報を求めに行く行為もアンテナを張ると言う事だし、極微小な情報を進んで受信して行くのも感度の良いアンテナならできる。
共鳴板と言うのは、もっと受動的だ。
アンテナがとても情報的で、例えば「興味」とか「好奇心」という事を思わせる言葉なのに対して、共鳴板と言うのはもっと「感動」とかに関係する。
もっとも、アンテナだって感動と無関係な言葉じゃないが。
共鳴板と言うのは世界の色々な出来事を自分の中でそのまま震わせる装置だ。
響きを拾って震えると言う事だ。
それから鏡と言う言葉には僕はかなり難しいと思う。
無我と言う言葉があるが、あれとも関わるんじゃないかと思う。
自分の中で世界を映し出すと言う事だ。
勿論、人間は自分の精神や認識力や身体的限界からでしか世界を見る事が出来ない。
ある意味で人間はそれぞれ自分達の鏡を通してしか世界を見ていないとも言える。
でもそういう事ではなくて、自分自体が鏡となるって事だ。
つまり、吟味する自分ではなくて単にまるごと映し出すということ。
目の前で自分の母親や恋人が自分についての酷い悪口を言っていても、それを“単純に、そのまま、映し出す”精神ということだ。
だから、そこには反省も憤怒も後悔もなく、ただ彼女達を含む世界全体が映ってるだけ。
世の中には色々な事がある。
個別的に見れば、その一つ一つが興味深い。
ただ我々はそれに慣れてしまっただけだし、慣れなければ暮らしてなんかいけないだろう。
だって、全ての人と全ての家と全ての道と全ての音に反応していたらどうなる?
まったくホワイトノイズだ。
全音域がいっぺんに鳴ったら「ザァァァ……」というノイズしか聞こえないのだ。
だから人間は適切に、時間ごとに感覚の水門を調整しているのだ。
その慣れた感覚の中で、いわば抽象化されてしまったものもある。
我々が食べている朝食だの夕食だの、あるいは何でも、実際には一食毎に味に美味い不味いがあるのだが、我々は結構それを素通りしている。
日々の食事の真剣な喜びと苦しみ……と言ったら大袈裟だけど、まあそう言ったものが慣れてしまった末に抽象的な「食事」ということに収斂されてぼやけていく。
ところで、気落ちしていたりするとアンテナや共鳴板や鏡は仕舞い込まれてしまう。
過去の事にこだわったり……要するに『反省』の状態にあるのだ。
反省というのは、とりもなおさず自分の事を考えている状態出歩、特に過去の自分の事を考えている時だ。
反省する事は良い事だ。自己対自己の瞬間だ。
しかし、あまり長い事落込んでくらい気分でいると、眼が反転して、いつまでも自分の中ばかり見ている事になる。
これはこれで問題だ。
自分の身体をヒョウタンみたいに考えると、空洞の中で反響し続けている過去の声をずっと聞いていることと言える。
しかし、よほど深く自分の空洞の中にいると不思議な事が起きる。
仕舞い切れていないアンテナが、狭い音域しか響かない共鳴板が、ほとんどが曇った鏡が、反応するのである。
深い憂愁の時間の中で、ある意味で狭く、ある意味で先鋭化された受信機は、時たま『芸術』だとかをビリビリと拾い上げる。
しかも、他の雑音は一切ない。
ただ芸術とかだけを拾い上げる。
それが真っ暗な空洞の中をストロボのように照らしあげる瞬間があるのだ。
涙ながらに彼等はそれに帰依する。
曇天から光がさす、ブレイクスルーの瞬間、エル・グレコの世界みたいな感じだ。
憂鬱が芸術に敏感にさせるのは多分本当だが、しかし単純に眼が内側に向いているだけで小型のアンテナ閉じているだけのこともある。
それは僕にはわからないことだが、しかし、新しい神が到来することを期待して憂鬱ぶるなら、それなりに感度を高めて真剣になる必要はあるかも知れない。
チベットでの暴動をうけて。
自分が思うに、チベットでの暴動は正体不明の状態であるように思う。
幾つかの状況を考える。
中国がチベットにしてきた事を歴史的に見れば、チベットは言語や種族に関して独立してしかるべき人々であるのに、中国が力で奪い取ったという状況を見る事ができる。
例えば、もし日本が中国を占領して何十年かたった時に、中国で暴動が起きたら中国人はそれを「不正」とはとらないだろう。
しかし、かといって暴動や力による行動が正しいと言いきるには、結構な覚悟がいる。
ほとんど無防備で敵陣に突っ込むような言論でもある。
と、ここで戦争やテロについても考える。
言論や交渉で解決できないような事は現実にあるわけだ。
不当。
服従を余儀なくされる状況。
そういう場合を脱するために肉体的力を使うのが悪い事か?
これは難しい話だ。
そもそも向こうが理性や正義感で話をしていないのだから、こっちもそのつもりで暴力に訴えかけて何が悪い?
言っても聞かないんだから手を出すしかない。
それは確かにわかる。
例えて言えば、地球を侵略した宇宙人に説得を試みても無駄だったから武装闘争をして自由を勝ち取るというストーリーと同じだ。
『悪い宇宙人』は漠然とした悪だ。
だが現実には様々な利益や隣同士の面倒な問題を孕んでいる。
太平洋戦争において日本は悪役だったし、今でも中国や韓国で悪く扱われる。
それは仕方がない事なのだろう。
だが、中国や韓国が他国を侵略しないと言う博愛的な理想を掲げているわけではない。
善悪は相対的に成りがちだ。
あらゆる戦いにおいて、「俺は悪の為に戦ってる」と言い切れるやつがいるか?
基本的には敵=悪を倒すために戦っている。
敵は悪なのだ。
そして自分は正義だ。
でなくてどうしてたたかいえるのだ。
報道を見ていると、中国の悪もチベットの暴力も見える。
これを自分達はどう判断したりあつかったらいいんだろう。
自分が思うに、チベットでの暴動は正体不明の状態であるように思う。
幾つかの状況を考える。
中国がチベットにしてきた事を歴史的に見れば、チベットは言語や種族に関して独立してしかるべき人々であるのに、中国が力で奪い取ったという状況を見る事ができる。
例えば、もし日本が中国を占領して何十年かたった時に、中国で暴動が起きたら中国人はそれを「不正」とはとらないだろう。
しかし、かといって暴動や力による行動が正しいと言いきるには、結構な覚悟がいる。
ほとんど無防備で敵陣に突っ込むような言論でもある。
と、ここで戦争やテロについても考える。
言論や交渉で解決できないような事は現実にあるわけだ。
不当。
服従を余儀なくされる状況。
そういう場合を脱するために肉体的力を使うのが悪い事か?
これは難しい話だ。
そもそも向こうが理性や正義感で話をしていないのだから、こっちもそのつもりで暴力に訴えかけて何が悪い?
言っても聞かないんだから手を出すしかない。
それは確かにわかる。
例えて言えば、地球を侵略した宇宙人に説得を試みても無駄だったから武装闘争をして自由を勝ち取るというストーリーと同じだ。
『悪い宇宙人』は漠然とした悪だ。
だが現実には様々な利益や隣同士の面倒な問題を孕んでいる。
太平洋戦争において日本は悪役だったし、今でも中国や韓国で悪く扱われる。
それは仕方がない事なのだろう。
だが、中国や韓国が他国を侵略しないと言う博愛的な理想を掲げているわけではない。
善悪は相対的に成りがちだ。
あらゆる戦いにおいて、「俺は悪の為に戦ってる」と言い切れるやつがいるか?
基本的には敵=悪を倒すために戦っている。
敵は悪なのだ。
そして自分は正義だ。
でなくてどうしてたたかいえるのだ。
報道を見ていると、中国の悪もチベットの暴力も見える。
これを自分達はどう判断したりあつかったらいいんだろう。
ちょっと間があきました。
あまり個人的な事をだらだらと文章に残すのは、まったく自分の趣味ではないけれど、ちょっと身近にあった事を書く。
最近、自分は訃報を二つ聞いた。
一つは両親の共通の友人のもので、一つは友人の父であった。
前者は少しばかりの面識もあるが最近は全く会っていなかったし、会ったとて昔懐かしむような事も私には何もない。
後者においては一つも知らない。事実、名前すら。
それでも私はショックを……憂鬱な……気落ちさせられた。
なんだか肩や腰が重たくなってくるような、疲れに似たものを感じて、春のどうしようもない空気を嗅ぎながら頬を枕に埋めた。
どうしようもないなぁ、と思う。
いつの間にか自分は冬の服装を解いて、軽い春に向けた服を着ている。
時間は過ぎる。
年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず というわけだ。
いつの間にか自分は歳をとっている。
母は電話を取って凍りついた。
訃報だった。
何年かぶりに母の涙を見たような気がしたが、どうしてなのだろう、近しいものの涙はそれだけで辛い。
殊に親の涙なんて私は全然見たくない。
居場所がなくてオロオロしてしまう。
母は電話をおいて、半ば諦めたみたいに笑って
「もうわたしたちの親じゃなくてわたしたちの番になってきたのねぇ」
と言った。
母も父も人の子だった。
祖母は健在で、私達と一緒に暮らしている。
近頃、めっきりぼけてきて、老いの頑迷に拍車がかかったか人の言う事をきかない。
邪魔だとか嫌いだとかは言えやしないが、それでも鬱陶しく思う事もある。
自分はその思いを持て余す。
孔子は単に父母を養うことが孝行ではないと言った。
犬馬を養う様に衣食住を与えればそれで良いのか?
心のない態度で父母を養う事は孝行ではない。
私は鞭打たれるような気持ちになるのだが……何よりも自分が金を稼ぐわけでもなし、穀潰しもいいところで養うなんぞとは口の端に昇らせるわけにもいかない。
単に頭で考えているだけである。
……いつしかそれも過ぎ去るだろう。
孝行したい時に親は無し、だ。
誰もいつか死ぬだろう。
わかってるんだ。
誰だって死ぬって事はよくよくわかってるはずなんだ。
訃報。
新聞を見ろ、訃報は絶え間なくいつもいつも毎日毎日……テレビをつければ誰が死んだ殺された……小説、ドラマ、あらゆるフィクションでさえ人が死ぬのを知れる。
だけどやっぱり「わかってない」のだ。
ハムレットであるだろう。
死ぬか、眠るか、おそらく夢見るだろう……。
そうだ。
神々は優しい。
死ぬことの恐怖は、真っ暗になってしまうことだ。
永久の別れ、という言葉は使い古されてはいてもデルフォイの神託と同じく間違いはない。
死者には二度と会えない、死者は永久の孤独に落ちる。
しかし、この「孤独に落ちる」という言葉さえまだ救いだ。
本当は死から先には何もない。
完全な不在だ。
神々は、天国を作ったり復活させたりする。
人間には霊魂があって死後も存在する。
このことの何と救いか。
本当は、まったくの不在になってしまう。
墓?
葬式?
そんなものは死者の為にやることじゃない。
生者のためにやっているのだ、死んでもなお存在していると信じて安心したいのだ。
そして安心のうちに死者を追い出して生者の国を存続させるためにやっているのだろう。
神々は優しい存在だ。
私達はそう言うことを信じないと……少なくとも、私はそう言うことを信じることによって幾らでも精神が楽になる。
目に見えぬ存在なるものは、救いだ。
現実のバッサリした死を生のままで触れるには、我々の皮膚は薄くて弱い。
いずれ慣れるか遠ざけるかも知れないが、優しい服が欲しい。
神々が存在するかどうか、なんてのは二の次だ、存在しないと困るんだろうと思う。
あまり個人的な事をだらだらと文章に残すのは、まったく自分の趣味ではないけれど、ちょっと身近にあった事を書く。
最近、自分は訃報を二つ聞いた。
一つは両親の共通の友人のもので、一つは友人の父であった。
前者は少しばかりの面識もあるが最近は全く会っていなかったし、会ったとて昔懐かしむような事も私には何もない。
後者においては一つも知らない。事実、名前すら。
それでも私はショックを……憂鬱な……気落ちさせられた。
なんだか肩や腰が重たくなってくるような、疲れに似たものを感じて、春のどうしようもない空気を嗅ぎながら頬を枕に埋めた。
どうしようもないなぁ、と思う。
いつの間にか自分は冬の服装を解いて、軽い春に向けた服を着ている。
時間は過ぎる。
年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず というわけだ。
いつの間にか自分は歳をとっている。
母は電話を取って凍りついた。
訃報だった。
何年かぶりに母の涙を見たような気がしたが、どうしてなのだろう、近しいものの涙はそれだけで辛い。
殊に親の涙なんて私は全然見たくない。
居場所がなくてオロオロしてしまう。
母は電話をおいて、半ば諦めたみたいに笑って
「もうわたしたちの親じゃなくてわたしたちの番になってきたのねぇ」
と言った。
母も父も人の子だった。
祖母は健在で、私達と一緒に暮らしている。
近頃、めっきりぼけてきて、老いの頑迷に拍車がかかったか人の言う事をきかない。
邪魔だとか嫌いだとかは言えやしないが、それでも鬱陶しく思う事もある。
自分はその思いを持て余す。
孔子は単に父母を養うことが孝行ではないと言った。
犬馬を養う様に衣食住を与えればそれで良いのか?
心のない態度で父母を養う事は孝行ではない。
私は鞭打たれるような気持ちになるのだが……何よりも自分が金を稼ぐわけでもなし、穀潰しもいいところで養うなんぞとは口の端に昇らせるわけにもいかない。
単に頭で考えているだけである。
……いつしかそれも過ぎ去るだろう。
孝行したい時に親は無し、だ。
誰もいつか死ぬだろう。
わかってるんだ。
誰だって死ぬって事はよくよくわかってるはずなんだ。
訃報。
新聞を見ろ、訃報は絶え間なくいつもいつも毎日毎日……テレビをつければ誰が死んだ殺された……小説、ドラマ、あらゆるフィクションでさえ人が死ぬのを知れる。
だけどやっぱり「わかってない」のだ。
ハムレットであるだろう。
死ぬか、眠るか、おそらく夢見るだろう……。
そうだ。
神々は優しい。
死ぬことの恐怖は、真っ暗になってしまうことだ。
永久の別れ、という言葉は使い古されてはいてもデルフォイの神託と同じく間違いはない。
死者には二度と会えない、死者は永久の孤独に落ちる。
しかし、この「孤独に落ちる」という言葉さえまだ救いだ。
本当は死から先には何もない。
完全な不在だ。
神々は、天国を作ったり復活させたりする。
人間には霊魂があって死後も存在する。
このことの何と救いか。
本当は、まったくの不在になってしまう。
墓?
葬式?
そんなものは死者の為にやることじゃない。
生者のためにやっているのだ、死んでもなお存在していると信じて安心したいのだ。
そして安心のうちに死者を追い出して生者の国を存続させるためにやっているのだろう。
神々は優しい存在だ。
私達はそう言うことを信じないと……少なくとも、私はそう言うことを信じることによって幾らでも精神が楽になる。
目に見えぬ存在なるものは、救いだ。
現実のバッサリした死を生のままで触れるには、我々の皮膚は薄くて弱い。
いずれ慣れるか遠ざけるかも知れないが、優しい服が欲しい。
神々が存在するかどうか、なんてのは二の次だ、存在しないと困るんだろうと思う。
【青菜に塩】
青菜に塩を降るとしなしなになる。しかし、塩気の無い青菜はあまり食う気もしない。
むしろ塩気が無ければ箸をつけるのを躊躇うものである。
転じて、普段は鬱陶しい男も悄気ていると少しはマシになるということ。
【蓼食う虫も好き好き】
とてもじゃないが食えないようなものを食う人間を見下す時に使う。
いかもの食い。味音痴。
好みの千差万別を指しているように見えるが、そうではない。
【薄氷を踏む】
一見危険な状態だが、もう既に落ちることが目に見えているので、危険どころではない様子。
見込みゼロ。
青菜に塩を降るとしなしなになる。しかし、塩気の無い青菜はあまり食う気もしない。
むしろ塩気が無ければ箸をつけるのを躊躇うものである。
転じて、普段は鬱陶しい男も悄気ていると少しはマシになるということ。
【蓼食う虫も好き好き】
とてもじゃないが食えないようなものを食う人間を見下す時に使う。
いかもの食い。味音痴。
好みの千差万別を指しているように見えるが、そうではない。
【薄氷を踏む】
一見危険な状態だが、もう既に落ちることが目に見えているので、危険どころではない様子。
見込みゼロ。
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