え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
『アンテナ』とか『共鳴板』とか『鏡』と我々は言う事がある。
これは何の事かと言うと、外の世界から情報を得たり感じたりすることの“感度”や“大きさ”の事に関してだ。
外の世界と言うのは、別に身体的な経験だけじゃない。
テレビだろうが小説だろうが、夢だろうが何でもだ。
アンテナを張る、つまり、色んな物事から受信しようとする。
大きなアンテナを四方に向けていると、色んな情報が入ってくる。
これは、更に能動的な言葉でもある。
自分から進んで情報を求めに行く行為もアンテナを張ると言う事だし、極微小な情報を進んで受信して行くのも感度の良いアンテナならできる。
共鳴板と言うのは、もっと受動的だ。
アンテナがとても情報的で、例えば「興味」とか「好奇心」という事を思わせる言葉なのに対して、共鳴板と言うのはもっと「感動」とかに関係する。
もっとも、アンテナだって感動と無関係な言葉じゃないが。
共鳴板と言うのは世界の色々な出来事を自分の中でそのまま震わせる装置だ。
響きを拾って震えると言う事だ。
それから鏡と言う言葉には僕はかなり難しいと思う。
無我と言う言葉があるが、あれとも関わるんじゃないかと思う。
自分の中で世界を映し出すと言う事だ。
勿論、人間は自分の精神や認識力や身体的限界からでしか世界を見る事が出来ない。
ある意味で人間はそれぞれ自分達の鏡を通してしか世界を見ていないとも言える。
でもそういう事ではなくて、自分自体が鏡となるって事だ。
つまり、吟味する自分ではなくて単にまるごと映し出すということ。
目の前で自分の母親や恋人が自分についての酷い悪口を言っていても、それを“単純に、そのまま、映し出す”精神ということだ。
だから、そこには反省も憤怒も後悔もなく、ただ彼女達を含む世界全体が映ってるだけ。
世の中には色々な事がある。
個別的に見れば、その一つ一つが興味深い。
ただ我々はそれに慣れてしまっただけだし、慣れなければ暮らしてなんかいけないだろう。
だって、全ての人と全ての家と全ての道と全ての音に反応していたらどうなる?
まったくホワイトノイズだ。
全音域がいっぺんに鳴ったら「ザァァァ……」というノイズしか聞こえないのだ。
だから人間は適切に、時間ごとに感覚の水門を調整しているのだ。
その慣れた感覚の中で、いわば抽象化されてしまったものもある。
我々が食べている朝食だの夕食だの、あるいは何でも、実際には一食毎に味に美味い不味いがあるのだが、我々は結構それを素通りしている。
日々の食事の真剣な喜びと苦しみ……と言ったら大袈裟だけど、まあそう言ったものが慣れてしまった末に抽象的な「食事」ということに収斂されてぼやけていく。
ところで、気落ちしていたりするとアンテナや共鳴板や鏡は仕舞い込まれてしまう。
過去の事にこだわったり……要するに『反省』の状態にあるのだ。
反省というのは、とりもなおさず自分の事を考えている状態出歩、特に過去の自分の事を考えている時だ。
反省する事は良い事だ。自己対自己の瞬間だ。
しかし、あまり長い事落込んでくらい気分でいると、眼が反転して、いつまでも自分の中ばかり見ている事になる。
これはこれで問題だ。
自分の身体をヒョウタンみたいに考えると、空洞の中で反響し続けている過去の声をずっと聞いていることと言える。
しかし、よほど深く自分の空洞の中にいると不思議な事が起きる。
仕舞い切れていないアンテナが、狭い音域しか響かない共鳴板が、ほとんどが曇った鏡が、反応するのである。
深い憂愁の時間の中で、ある意味で狭く、ある意味で先鋭化された受信機は、時たま『芸術』だとかをビリビリと拾い上げる。
しかも、他の雑音は一切ない。
ただ芸術とかだけを拾い上げる。
それが真っ暗な空洞の中をストロボのように照らしあげる瞬間があるのだ。
涙ながらに彼等はそれに帰依する。
曇天から光がさす、ブレイクスルーの瞬間、エル・グレコの世界みたいな感じだ。
憂鬱が芸術に敏感にさせるのは多分本当だが、しかし単純に眼が内側に向いているだけで小型のアンテナ閉じているだけのこともある。
それは僕にはわからないことだが、しかし、新しい神が到来することを期待して憂鬱ぶるなら、それなりに感度を高めて真剣になる必要はあるかも知れない。
これは何の事かと言うと、外の世界から情報を得たり感じたりすることの“感度”や“大きさ”の事に関してだ。
外の世界と言うのは、別に身体的な経験だけじゃない。
テレビだろうが小説だろうが、夢だろうが何でもだ。
アンテナを張る、つまり、色んな物事から受信しようとする。
大きなアンテナを四方に向けていると、色んな情報が入ってくる。
これは、更に能動的な言葉でもある。
自分から進んで情報を求めに行く行為もアンテナを張ると言う事だし、極微小な情報を進んで受信して行くのも感度の良いアンテナならできる。
共鳴板と言うのは、もっと受動的だ。
アンテナがとても情報的で、例えば「興味」とか「好奇心」という事を思わせる言葉なのに対して、共鳴板と言うのはもっと「感動」とかに関係する。
もっとも、アンテナだって感動と無関係な言葉じゃないが。
共鳴板と言うのは世界の色々な出来事を自分の中でそのまま震わせる装置だ。
響きを拾って震えると言う事だ。
それから鏡と言う言葉には僕はかなり難しいと思う。
無我と言う言葉があるが、あれとも関わるんじゃないかと思う。
自分の中で世界を映し出すと言う事だ。
勿論、人間は自分の精神や認識力や身体的限界からでしか世界を見る事が出来ない。
ある意味で人間はそれぞれ自分達の鏡を通してしか世界を見ていないとも言える。
でもそういう事ではなくて、自分自体が鏡となるって事だ。
つまり、吟味する自分ではなくて単にまるごと映し出すということ。
目の前で自分の母親や恋人が自分についての酷い悪口を言っていても、それを“単純に、そのまま、映し出す”精神ということだ。
だから、そこには反省も憤怒も後悔もなく、ただ彼女達を含む世界全体が映ってるだけ。
世の中には色々な事がある。
個別的に見れば、その一つ一つが興味深い。
ただ我々はそれに慣れてしまっただけだし、慣れなければ暮らしてなんかいけないだろう。
だって、全ての人と全ての家と全ての道と全ての音に反応していたらどうなる?
まったくホワイトノイズだ。
全音域がいっぺんに鳴ったら「ザァァァ……」というノイズしか聞こえないのだ。
だから人間は適切に、時間ごとに感覚の水門を調整しているのだ。
その慣れた感覚の中で、いわば抽象化されてしまったものもある。
我々が食べている朝食だの夕食だの、あるいは何でも、実際には一食毎に味に美味い不味いがあるのだが、我々は結構それを素通りしている。
日々の食事の真剣な喜びと苦しみ……と言ったら大袈裟だけど、まあそう言ったものが慣れてしまった末に抽象的な「食事」ということに収斂されてぼやけていく。
ところで、気落ちしていたりするとアンテナや共鳴板や鏡は仕舞い込まれてしまう。
過去の事にこだわったり……要するに『反省』の状態にあるのだ。
反省というのは、とりもなおさず自分の事を考えている状態出歩、特に過去の自分の事を考えている時だ。
反省する事は良い事だ。自己対自己の瞬間だ。
しかし、あまり長い事落込んでくらい気分でいると、眼が反転して、いつまでも自分の中ばかり見ている事になる。
これはこれで問題だ。
自分の身体をヒョウタンみたいに考えると、空洞の中で反響し続けている過去の声をずっと聞いていることと言える。
しかし、よほど深く自分の空洞の中にいると不思議な事が起きる。
仕舞い切れていないアンテナが、狭い音域しか響かない共鳴板が、ほとんどが曇った鏡が、反応するのである。
深い憂愁の時間の中で、ある意味で狭く、ある意味で先鋭化された受信機は、時たま『芸術』だとかをビリビリと拾い上げる。
しかも、他の雑音は一切ない。
ただ芸術とかだけを拾い上げる。
それが真っ暗な空洞の中をストロボのように照らしあげる瞬間があるのだ。
涙ながらに彼等はそれに帰依する。
曇天から光がさす、ブレイクスルーの瞬間、エル・グレコの世界みたいな感じだ。
憂鬱が芸術に敏感にさせるのは多分本当だが、しかし単純に眼が内側に向いているだけで小型のアンテナ閉じているだけのこともある。
それは僕にはわからないことだが、しかし、新しい神が到来することを期待して憂鬱ぶるなら、それなりに感度を高めて真剣になる必要はあるかも知れない。
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