え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
[1]
[2]
始めてトラックバックと言うのをしてみたけど、これであってるのかな?
人様の迷惑にならなければ良いんだけど。
で、なんでかっていうと、表現の幅と言うようなことで考えたりしたので。
美術ではある時期から『巧拙』さえも表現に取り入れられたわけですけれども、そういうことに関して急に気付いたので。
人様の迷惑にならなければ良いんだけど。
で、なんでかっていうと、表現の幅と言うようなことで考えたりしたので。
美術ではある時期から『巧拙』さえも表現に取り入れられたわけですけれども、そういうことに関して急に気付いたので。
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ブログペット導入したのはいいんですが。
ココロが「ストローで料理作る」とか言ってる。
音速丸みたいな発想。
「ガム汁」とか「乾電池の塩焼き」とか言って欲しいですね。
そんなわけでロココです。
ロココと言うと「軽薄」という何とも不名誉な印象が付随しながら、「優美」「優雅」で「明るい」イメージじゃないでしょうか。
たしかにロココは貴族文化を背景にした過分に装飾的な要素がありますね。
細かい装飾が沢山ついてキラキラしてる感じです。
ココロが「ストローで料理作る」とか言ってる。
音速丸みたいな発想。
「ガム汁」とか「乾電池の塩焼き」とか言って欲しいですね。
そんなわけでロココです。
ロココと言うと「軽薄」という何とも不名誉な印象が付随しながら、「優美」「優雅」で「明るい」イメージじゃないでしょうか。
たしかにロココは貴族文化を背景にした過分に装飾的な要素がありますね。
細かい装飾が沢山ついてキラキラしてる感じです。
ハリウッドの子供用の映画の構造
テーマが『家族愛』『正義』『友情』『協力』『恋愛』
ストーリーの形式『成長物語』『再発見(幸せの青い鳥)物語』
ストーリー
『ある共同体の中にいるAは他とは違う』
(劣っている、優れている、特徴がある)
『他と違う事により何らかの困難に会う。多くは共同体外へ出る』
(追い出される、何かを探しに出る)
『困難→解決(鍛練)のプロセスの繰り返しにより話が進む』
(成長、友情、自己発見、自己の証明)
『目標を達する。多くは共同体に再帰属する』
(共同体を救う、自己の力を証明する、自己を受け入れる別の共同体に入る)
備考
軸としてテーマが一貫して貫かれる。
恋愛沙汰がある。
コメディがある。
「自惚れる→失敗」
「危機一髪」がある。
ラストには一度安心させて、もう一度困難を吹っかけて解決させることがある。
よく「ぶら下がる」
キャラクターは大体タイプが決まっている。
正直者。
ライバル。
陽気で軽薄な奴。
老人型。
クール。
自惚れ屋。
悪人。
堅実な仲間。
熱血漢。
憂鬱質。
大体こんなところからマイナーチェンジとバリエーションをかえる。
テーマが『家族愛』『正義』『友情』『協力』『恋愛』
ストーリーの形式『成長物語』『再発見(幸せの青い鳥)物語』
ストーリー
『ある共同体の中にいるAは他とは違う』
(劣っている、優れている、特徴がある)
『他と違う事により何らかの困難に会う。多くは共同体外へ出る』
(追い出される、何かを探しに出る)
『困難→解決(鍛練)のプロセスの繰り返しにより話が進む』
(成長、友情、自己発見、自己の証明)
『目標を達する。多くは共同体に再帰属する』
(共同体を救う、自己の力を証明する、自己を受け入れる別の共同体に入る)
備考
軸としてテーマが一貫して貫かれる。
恋愛沙汰がある。
コメディがある。
「自惚れる→失敗」
「危機一髪」がある。
ラストには一度安心させて、もう一度困難を吹っかけて解決させることがある。
よく「ぶら下がる」
キャラクターは大体タイプが決まっている。
正直者。
ライバル。
陽気で軽薄な奴。
老人型。
クール。
自惚れ屋。
悪人。
堅実な仲間。
熱血漢。
憂鬱質。
大体こんなところからマイナーチェンジとバリエーションをかえる。
今では極当り前になった感のあるコンセプチュアル・アートだが、それは一体どういったものだろう?
ソル・ルウィットの言う“アイデアが芸術の作り手”とは何なのだろう?
思うに、まず、これは作品を原理になるまで削り落す事だ。
それがイデアと言うべきか原理と言うべきか。
どちらにせよ、作品をある一つの仕方によって定められた原理……つまり観念にすることにある。
しかし、基本的には言語と格闘せざるをえなかった。
物質性の否定でありイメージを基とする芸術であるにもかかわらず、何かを顕在化するには物質と関わらなければならない。
その物質を極力おさえる為には、文字が良かった。
指示するもの、記号が。
だが「観念は言語的構造に先行して確立されることはない(ソシュール)」のである。
つまり観念的な作品を作ると言う事は、常に言語的であると言う事だ。
物質性を否定するかわりに、今度は無批判に言語を受け入れなければならない。
純粋な概念等ありえない。
コンセプチュアルと言う場合、それは常に言語的であるということを考えなければならない。
ソル・ルウィットの言う“アイデアが芸術の作り手”とは何なのだろう?
思うに、まず、これは作品を原理になるまで削り落す事だ。
それがイデアと言うべきか原理と言うべきか。
どちらにせよ、作品をある一つの仕方によって定められた原理……つまり観念にすることにある。
しかし、基本的には言語と格闘せざるをえなかった。
物質性の否定でありイメージを基とする芸術であるにもかかわらず、何かを顕在化するには物質と関わらなければならない。
その物質を極力おさえる為には、文字が良かった。
指示するもの、記号が。
だが「観念は言語的構造に先行して確立されることはない(ソシュール)」のである。
つまり観念的な作品を作ると言う事は、常に言語的であると言う事だ。
物質性を否定するかわりに、今度は無批判に言語を受け入れなければならない。
純粋な概念等ありえない。
コンセプチュアルと言う場合、それは常に言語的であるということを考えなければならない。
作品の金銭的な価値基準には色々ある。
物質的価値。
例えば、金細工は如何に無様であろうと金そのものの価値が見い出される。
美術的にどうこうという前に、素材が金銭的価値を出す場合。
これは絵画や立体に置いては“実費”といった事になろう。
が、往々にして売り手もしくは作者が実費以上を要求する場合でも、買い手がそれだけの価値を見い出さなかったら実費以下の価値になる。
専ら価値判断を“物体”においていないからだ。
しかし、貴金属をあえて大量に使う作品もある。
その場合は、「貴金属=高価」という前提を利用している為に、作品の価値そのものに物質の値段が関わる。
一方で『小さな紙に描いたドローイング』と『大作油画』の値段も違う。
一つは保存性の問題。
もう一つは、号数や作業時間が実費として考慮されているからだろう。
芸術的価値に対して金銭的価値は釣合うわけではない。
何故なら、作品が物だからだ。
商品は「芸術的な体験そのもの」ではなく、あくまで物体である。
この物体の価値は実際にはどうなっているのか?
骨董的価値。
骨董品が取り引きされる場合、その真贋と時代と希少性、保存状態などが値段に関わる。
芸術作品と呼ばれているものにも、往々にしてこの事は当てはまる。
その作者は誰か?いつ頃のものか?本当にそうか?
などというものが、その作品の作品性と関わるだろうか?
ローマ時代のギリシャ彫刻を摸刻した像を見た時に、その作者や時代を知らなくても「良い」と思える事は当り前の様にある。
とはいえ、人間は“視覚”によって情報を取り入れ、脳内で“知覚”となるのであれば、その歴史的証言力に十分な意味があるとも思える。
作品にせよ物体にせよ、表面に表われる記号は多い。
それは作品の形体や内容に留まらず、古さや時代性といったものも情報として発している。
我々が物を把握する際には、過去の記憶を参照する。
そして、作品が発している形体や内容にまとわりついている古さや時代性なんかも、自然に記憶との照合を行なって理解している。
すなわち、古い作品の芸術的価値を「古い事」によって人が見い出しても、それは嘘ではない。
その作品には既に古いと言う情報は不可分に関係しているからである。
古い作品と言うのは古い事によって「芸術的価値」を得ている。
『作品そのもの』と『それにまつわる諸々の要素』は不可分だし、全てを含めて作品はそこにあるはずだ。
しかし、そういう場合の「古さ」なんかは骨董的価値というよりも作品的価値という事になるはずだ。
が、それが金銭的な問題になると、『作品そのもの』より『諸々の要素』の方が先行する事がある。
つまり骨董的な価値として、作品の作品性から離れて、『諸々の要素』から作品を規定する場合だ。
その時には作品の資質に関わらず値段が設定され、価値が設定される。
希少性の問題もある。
希少である事は、前述の通り『作品そのもの』ではなく、『それにまつわる諸々の要素』として不可分のものだ。
ベンヤミンの言うところ、「アウラ」と言ったものがそれにあたるだろうか。
ということは、複製芸術にまで話を広げなければならない。
実際、映像作品や版画等では、摺数を規定し、通し番号を振り、原版を廃棄する事もある。
「いま」「ここで」の一回性を確保し、価値を生み出す必要があったからだ。
複製できるものを複製できない様にしてアウラを保持する。
……ところで、このアウラであるが、「いつでも」「どこでも」その作品を体験できるものには無いと言う。「いま」「ここで」しか体験できない作品にアウラはまつわる。
さて、しかし、個別的に考えれば、どのような作品にも「いま」「ここで」しか接しえないのではないか?
確かに映像作品であればDVD一枚持って自宅でもホールでも体験できる。
音楽に至っては、ポータブルプレーヤーによってそれこそどんな時でも体験できる。
しかし、実際には、体験しているのは個々の時と場所でではないか?
*途中
複製芸術には、その反復性と大量生産性が『諸々の要素』としてまつわっている。
絵画は老いる、或いは死ぬ。→デュシャン
一つの作品の中で反復を完結させるのではなく、つねに反復を可能にさせる複製芸術の工業性→ミニマリズムとして
物質的価値。
例えば、金細工は如何に無様であろうと金そのものの価値が見い出される。
美術的にどうこうという前に、素材が金銭的価値を出す場合。
これは絵画や立体に置いては“実費”といった事になろう。
が、往々にして売り手もしくは作者が実費以上を要求する場合でも、買い手がそれだけの価値を見い出さなかったら実費以下の価値になる。
専ら価値判断を“物体”においていないからだ。
しかし、貴金属をあえて大量に使う作品もある。
その場合は、「貴金属=高価」という前提を利用している為に、作品の価値そのものに物質の値段が関わる。
一方で『小さな紙に描いたドローイング』と『大作油画』の値段も違う。
一つは保存性の問題。
もう一つは、号数や作業時間が実費として考慮されているからだろう。
芸術的価値に対して金銭的価値は釣合うわけではない。
何故なら、作品が物だからだ。
商品は「芸術的な体験そのもの」ではなく、あくまで物体である。
この物体の価値は実際にはどうなっているのか?
骨董的価値。
骨董品が取り引きされる場合、その真贋と時代と希少性、保存状態などが値段に関わる。
芸術作品と呼ばれているものにも、往々にしてこの事は当てはまる。
その作者は誰か?いつ頃のものか?本当にそうか?
などというものが、その作品の作品性と関わるだろうか?
ローマ時代のギリシャ彫刻を摸刻した像を見た時に、その作者や時代を知らなくても「良い」と思える事は当り前の様にある。
とはいえ、人間は“視覚”によって情報を取り入れ、脳内で“知覚”となるのであれば、その歴史的証言力に十分な意味があるとも思える。
作品にせよ物体にせよ、表面に表われる記号は多い。
それは作品の形体や内容に留まらず、古さや時代性といったものも情報として発している。
我々が物を把握する際には、過去の記憶を参照する。
そして、作品が発している形体や内容にまとわりついている古さや時代性なんかも、自然に記憶との照合を行なって理解している。
すなわち、古い作品の芸術的価値を「古い事」によって人が見い出しても、それは嘘ではない。
その作品には既に古いと言う情報は不可分に関係しているからである。
古い作品と言うのは古い事によって「芸術的価値」を得ている。
『作品そのもの』と『それにまつわる諸々の要素』は不可分だし、全てを含めて作品はそこにあるはずだ。
しかし、そういう場合の「古さ」なんかは骨董的価値というよりも作品的価値という事になるはずだ。
が、それが金銭的な問題になると、『作品そのもの』より『諸々の要素』の方が先行する事がある。
つまり骨董的な価値として、作品の作品性から離れて、『諸々の要素』から作品を規定する場合だ。
その時には作品の資質に関わらず値段が設定され、価値が設定される。
希少性の問題もある。
希少である事は、前述の通り『作品そのもの』ではなく、『それにまつわる諸々の要素』として不可分のものだ。
ベンヤミンの言うところ、「アウラ」と言ったものがそれにあたるだろうか。
ということは、複製芸術にまで話を広げなければならない。
実際、映像作品や版画等では、摺数を規定し、通し番号を振り、原版を廃棄する事もある。
「いま」「ここで」の一回性を確保し、価値を生み出す必要があったからだ。
複製できるものを複製できない様にしてアウラを保持する。
……ところで、このアウラであるが、「いつでも」「どこでも」その作品を体験できるものには無いと言う。「いま」「ここで」しか体験できない作品にアウラはまつわる。
さて、しかし、個別的に考えれば、どのような作品にも「いま」「ここで」しか接しえないのではないか?
確かに映像作品であればDVD一枚持って自宅でもホールでも体験できる。
音楽に至っては、ポータブルプレーヤーによってそれこそどんな時でも体験できる。
しかし、実際には、体験しているのは個々の時と場所でではないか?
*途中
複製芸術には、その反復性と大量生産性が『諸々の要素』としてまつわっている。
絵画は老いる、或いは死ぬ。→デュシャン
一つの作品の中で反復を完結させるのではなく、つねに反復を可能にさせる複製芸術の工業性→ミニマリズムとして
社会の一員としての基準は、その社会の枠組みに入っているか否かだろうと思う。
ところで社会と言う漠然とした言葉を、実際化してみると国家がまずある。
自分が国家の一員であると言う為にはまず国籍が必要だ。
国籍さえ認められれば、法的には国家の一員と言えるだろう。
では法以外のところではどうだろう。
その集団と同一の言語と常識が必要なのは、当り前だ。
“常識”がその集団と同一というのは、社会的な規範が同じである事、行動基準や宗教感が同じである事、伝統的知識を共有できる事などによって、何かの判断を迫られた場合に、その集団にとって社会的または精神的にダメージを与えない場合の事だ。
国籍があり、言語が同じで、常識も同じだった場合、それはその社会集団の一員となっていると言える。
しかし、社会と言う機能は生活の為にある。
生活。
安定した生産とその維持を、またその効率化を計るというのは、社会の機能の最たるものだろう。
法整備は社会と言う有効なシステムの為に必要だった。
職業の分担、分業は社会の機能から生まれたのだろう。
狩りにせよ農業にせよ商業にせよ、或いは単なる労働力にせよ、それはそれぞれ職人とも言える。
ところで、一般的な言葉で言う「職人」は専ら物作りをする人間の事だ。
指物師や金物師、建築家、土師、陶芸家……そして画家や彫刻家。
職人が売っているものは技術である。
そしてその技術は社会の需要に基づいて売っている。
必要に応じて分業化され、それを専門に制作する者達が職人だった。
かつて過去に芸術家と見なされた人達は、確かにいた。
だが、それはなんだったのか?
……それは職業だったのか?
いや、むしろ称号だった。
本来的に依頼に対して制作を行なう者=職人しかそこに存在しなかった。
その職人のうち、傑出して感動的な作品を作る者が芸術家と呼ばれた。
リュシッポスは芸術家だったが彫刻家だった、言い換えれば彫刻職人がその作品の出来によって芸術家と呼ばれたわけだった。
彼等は基本的には技術によって感動を売るのだった。
一方で、詩人はエンターティナー、娯楽を売る人々でもあった。
今日的な仕方で理解するのだったら、彼等の方が芸術家という言葉が当てはまりやすかった。
というのは、彼等が売る技術は“感情を模倣する事”に因っていたからだった。
彼等はより直接的に感動を云々しなければならなかった。
客の需要が「如何に感情を刺激してくれるか」だったから。
彫刻の技術は修練によって現実の対象に迫る事ができるが、詩人の技術は確かに漠然として捕らえ所がない。
彼等の中に芸術家はいたが、前提として詩人である事は否めかった。
こうつらつら考えると芸術家と言う職業は本当にあるのだろうか?
我々は今更ARTという英語を思い巡らせる。
それは<技術>と<芸術>が同じ意味であるとか、芸術家は職人であるとかいう以前に第一義として技術であり職人であることを意味している。
優れた技術、優れた職人が、THE ARTなのであった。
少なくともかつての世界には「芸術家」という職業はなかった。
今はあるのだろうか?
ところで社会と言う漠然とした言葉を、実際化してみると国家がまずある。
自分が国家の一員であると言う為にはまず国籍が必要だ。
国籍さえ認められれば、法的には国家の一員と言えるだろう。
では法以外のところではどうだろう。
その集団と同一の言語と常識が必要なのは、当り前だ。
“常識”がその集団と同一というのは、社会的な規範が同じである事、行動基準や宗教感が同じである事、伝統的知識を共有できる事などによって、何かの判断を迫られた場合に、その集団にとって社会的または精神的にダメージを与えない場合の事だ。
国籍があり、言語が同じで、常識も同じだった場合、それはその社会集団の一員となっていると言える。
しかし、社会と言う機能は生活の為にある。
生活。
安定した生産とその維持を、またその効率化を計るというのは、社会の機能の最たるものだろう。
法整備は社会と言う有効なシステムの為に必要だった。
職業の分担、分業は社会の機能から生まれたのだろう。
狩りにせよ農業にせよ商業にせよ、或いは単なる労働力にせよ、それはそれぞれ職人とも言える。
ところで、一般的な言葉で言う「職人」は専ら物作りをする人間の事だ。
指物師や金物師、建築家、土師、陶芸家……そして画家や彫刻家。
職人が売っているものは技術である。
そしてその技術は社会の需要に基づいて売っている。
必要に応じて分業化され、それを専門に制作する者達が職人だった。
かつて過去に芸術家と見なされた人達は、確かにいた。
だが、それはなんだったのか?
……それは職業だったのか?
いや、むしろ称号だった。
本来的に依頼に対して制作を行なう者=職人しかそこに存在しなかった。
その職人のうち、傑出して感動的な作品を作る者が芸術家と呼ばれた。
リュシッポスは芸術家だったが彫刻家だった、言い換えれば彫刻職人がその作品の出来によって芸術家と呼ばれたわけだった。
彼等は基本的には技術によって感動を売るのだった。
一方で、詩人はエンターティナー、娯楽を売る人々でもあった。
今日的な仕方で理解するのだったら、彼等の方が芸術家という言葉が当てはまりやすかった。
というのは、彼等が売る技術は“感情を模倣する事”に因っていたからだった。
彼等はより直接的に感動を云々しなければならなかった。
客の需要が「如何に感情を刺激してくれるか」だったから。
彫刻の技術は修練によって現実の対象に迫る事ができるが、詩人の技術は確かに漠然として捕らえ所がない。
彼等の中に芸術家はいたが、前提として詩人である事は否めかった。
こうつらつら考えると芸術家と言う職業は本当にあるのだろうか?
我々は今更ARTという英語を思い巡らせる。
それは<技術>と<芸術>が同じ意味であるとか、芸術家は職人であるとかいう以前に第一義として技術であり職人であることを意味している。
優れた技術、優れた職人が、THE ARTなのであった。
少なくともかつての世界には「芸術家」という職業はなかった。
今はあるのだろうか?
模倣という言葉が出ると、私達は身構えます。
というのもプラトン、アリストテレス以来「模倣」は芸術にとってのキータームになっているからです。
模倣、ミメーシス。
プラトンにとっては、芸術に類するものは模倣であるために無価値、むしろ有害とさえ考えました。
(これは教育にも関係する事ですが、それは別項を上げるつもりです。)
芸術とは模倣の技術である。
イデアの復写的産物である現実界を更に模しているということは、人をイデアより遠退かせることにほかならない。
上に芸術は理性ではなく、ただ快楽にのみ訴え、人はそれに満足を覚えざるをえない故、芸術は本質から遠ざける堕落的な害悪である。
という考え方でありました。
一方でアリストテレスは、人はそもそも模倣を好む生物であると看破します。
それは人が学ぶ生き物だから、模倣されたものに対して思い考えものである。
赤子が模倣から始めるのはわかりきっている。
そして、芸術は人にカタルシスを与え、本来的な人間へと戻す、或いは引き上げる。
と、解釈されます。
これはまったく、我々にとっては大きな問題です。
一方で価値が認められ、一方で害悪とさえ思われています。
芸術は害悪と結びつきました。
人間性と社会性の二つの面で考えましょう。
プラトンは哲学者による完璧な国家を考える上で、まず詩人を初めとする芸術家を排斥します。
無闇矢鱈に人の感情を刺激するからです。
良し悪しの判断ではなく、ただ感情によって人を動かすという「社会的害悪」であります。
これはソフィスト、弁論家のそれと同じ理由での排斥です。
ただ表面的なことによって人の感情を揺さぶり、理性による正しい判断や本質に則した知見とは無縁のもの、むしろそれを邪魔するものと考えられました。
私達が目にしているものは、“洞窟の比喩”を用いれば、影に過ぎないと言う事になります。
イデア、つまり『そのもの』『本質』の影絵です。
その影絵をさらに模倣し、無闇に感情や快楽へ訴えるのだから、意味が有るとはとてもいえない。
(「芸術」は、専ら彫像や絵画や劇(詩)を指しています)
哲人国家を理想とするプラトンにとって、芸術は社会的に容認しえないものでしたし、人間そのものにとっても非理性的で問題を孕んだものでした。
アリストテレスにとっての模倣(「再現」という言葉が使われます)は人間に備わった自然な傾向でありました。
人間は前提として再現されたものを喜びます。
例えば、悲劇的な戦争の場面であっても死体があらわれる場面であっても、現実の様に目を背けるよりはむしろ楽しむ(無論、喜々というのでなく感情を揺さぶられるという意味での)ことができる。
嘔吐するような悲惨な場面であっても再現されたものなら人は見る事ができ、満足さえ得るものです。
これは大いに示唆的です。
「人間は現実よりも再現を好む」というのは、基本的に作家に常に纏わりつく問題です。
話を戻します。
それで人間にとっての自然な欲求である再現への快楽は、ただそれだけではなく、カタルシスを呼び起こすものとされています。
この『カタルシス』はどう解釈するか、いまだに決着をみない言葉であります。
一般的には「浄化」だと見られていますが、色々な意見が有ります。
が、どうあれ、これを否定的な意味で捉える解釈は有りません。
何らかの肯定的な作用として「カタルシス」は捕らえられています。
人にはよりますが、人間の本来性を取り戻すと言う意味で考えられる事が多いようです。
しかしアリストテレスが社会性を考える場合に必ずしも堕落や快楽に対して無防備だったわけでは有りません。
娯楽としての芸術に対して無関心だったわけではない(当時、彫像は神殿など、劇はディオニソス祭などで行なわれて、今日の様に常時手軽に手に入ったわけでないことは考慮すべき)。
とはいえ、人間の本来性とその機能を考えたら必然的で重要なものが芸術でした。
さて、芸術にとってこれらのことは、『価値』の問題に則すると重要のポイントになります。
プラトンはイデアを前提にして人間的にも社会的にも「本質」から遠ざけ無用な煽動をするとして否定しました。
アリストテレスは専ら人間の本質として芸術を擁護しました。
どちらが正しいか?
私のような浅学の身には重過ぎる質問です。
しかし、改めて質問し直す事はできます。
人間にとって芸術はどうであるか?
社会にとって芸術はどうであるか?
社会を作るのは人間ですが、人間個人以上に社会にとっては統一的システムが必要とされています。
社会の構造の中に無秩序性があらざるをえないとしても、統治という観点から見ればまず秩序ありきです。
すなわち、統治する上では芸術による無闇な混乱は避けたい。
芸術は混乱か?
そう、感情と理性は、混沌と秩序の二分割に対応していました。
パトスとエトス、カオスとロゴスは、時に善悪にさえなりました。
混沌、不均衡は悪、理性、秩序は善という……これはしかし、幾何学的数学的神秘主義でもあります。数秘術や魔法陣、魔法円、カバリズムにせよ、一定の数学的秩序を持ち合わせているからこそ善であり神秘である本質的動因に働きかけているという発想につながりました……。
芸術は感情の側に有り、感情は混沌と類似、すなわち悪と考える事できます。
だから、秩序を中心とすべき『社会にとって芸術は対立する』ものである。
これはしかし、今日的発想とは言い難いでしょう。
が、そのことは追って述べます。
人間的な面に則して言えば、アリストテレスはミメーシスの哲学的側面と感情の初期化、浄化を認めていました。
感情は人間の本来備わっている物として、悪とはしていない。
理性を重んじるにしても、感情即悪ではなく、むしろ『人間にとって芸術は不可避』であるとさえかんがえられます。
プラトンは、ただ無闇な感情の上下であると感じていたようです。
二者とも意見は違いますが、しかし、少なくともこれだけは言っています。
すなわち、芸術が某かの感動を人に与えている、と。
それが感情のみであるために理性にとって有害か、人間の本来性である為に哲学的であるかは相違がありますが、人間が感動を得ている事を否定しません。
我々はここでようやく問題に着手する事が出来ます。
問題は感動なのです。
模倣。
近代の表現主義に至っても、未だに模倣です。
と言うのは、感情や雰囲気を再現しているからです。
シュルレアリスムも心理学的模倣ということになります。
パフォーマンスにしても、観客に作者の体験や思想を追体験させると言う部分があるうえでは模倣の領域を出ません。
芸術においては、模倣の問題は大変重要なことではあります。
何故なら、私達は模倣に対して感動を得ているからです。
リアルな表現と言うのは、ある種の感動を誘います。
が、それが単にリアリティだけで終った場合に感動を誘わないのは良く知られています。
例えば「日常」というテーマは現代で良く使われますが、日常を克明に淡々と切り取った場合、それは芸術と言うよりも退屈な再現に他なりません。
我々が模倣するのは何でしょうか?
それは優れている事物。
より感情をうごかす事物。
ある情景や場面や心情や、人、物、状況、思考過程、それらの特殊な事物であります。
つまり、その『ある種の感動体験の媒体』を再現することによって、人に感動を与えようとしているわけです。
それらは単なる再現ではありえません。
十分に何かを抽出させた再現です。
……しかしながら、一方で、単純無類の完璧な再現は感動を誘います。
完全な『単なる再現』です。
日常を克明に淡々と切り取ったとしても、それが細部に至るまで完全に再現されていると知ると我々は感動を覚えます。
極つまらない形をした人物像であろうとも、それが真に人間かのようであったらある種の感動を覚えます。
つまり、前者は感動体験そのものを作者が模倣し感動を与える場合。後者は再現という技術そのもので感動を与える場合。
と、なります。
というのもプラトン、アリストテレス以来「模倣」は芸術にとってのキータームになっているからです。
模倣、ミメーシス。
プラトンにとっては、芸術に類するものは模倣であるために無価値、むしろ有害とさえ考えました。
(これは教育にも関係する事ですが、それは別項を上げるつもりです。)
芸術とは模倣の技術である。
イデアの復写的産物である現実界を更に模しているということは、人をイデアより遠退かせることにほかならない。
上に芸術は理性ではなく、ただ快楽にのみ訴え、人はそれに満足を覚えざるをえない故、芸術は本質から遠ざける堕落的な害悪である。
という考え方でありました。
一方でアリストテレスは、人はそもそも模倣を好む生物であると看破します。
それは人が学ぶ生き物だから、模倣されたものに対して思い考えものである。
赤子が模倣から始めるのはわかりきっている。
そして、芸術は人にカタルシスを与え、本来的な人間へと戻す、或いは引き上げる。
と、解釈されます。
これはまったく、我々にとっては大きな問題です。
一方で価値が認められ、一方で害悪とさえ思われています。
芸術は害悪と結びつきました。
人間性と社会性の二つの面で考えましょう。
プラトンは哲学者による完璧な国家を考える上で、まず詩人を初めとする芸術家を排斥します。
無闇矢鱈に人の感情を刺激するからです。
良し悪しの判断ではなく、ただ感情によって人を動かすという「社会的害悪」であります。
これはソフィスト、弁論家のそれと同じ理由での排斥です。
ただ表面的なことによって人の感情を揺さぶり、理性による正しい判断や本質に則した知見とは無縁のもの、むしろそれを邪魔するものと考えられました。
私達が目にしているものは、“洞窟の比喩”を用いれば、影に過ぎないと言う事になります。
イデア、つまり『そのもの』『本質』の影絵です。
その影絵をさらに模倣し、無闇に感情や快楽へ訴えるのだから、意味が有るとはとてもいえない。
(「芸術」は、専ら彫像や絵画や劇(詩)を指しています)
哲人国家を理想とするプラトンにとって、芸術は社会的に容認しえないものでしたし、人間そのものにとっても非理性的で問題を孕んだものでした。
アリストテレスにとっての模倣(「再現」という言葉が使われます)は人間に備わった自然な傾向でありました。
人間は前提として再現されたものを喜びます。
例えば、悲劇的な戦争の場面であっても死体があらわれる場面であっても、現実の様に目を背けるよりはむしろ楽しむ(無論、喜々というのでなく感情を揺さぶられるという意味での)ことができる。
嘔吐するような悲惨な場面であっても再現されたものなら人は見る事ができ、満足さえ得るものです。
これは大いに示唆的です。
「人間は現実よりも再現を好む」というのは、基本的に作家に常に纏わりつく問題です。
話を戻します。
それで人間にとっての自然な欲求である再現への快楽は、ただそれだけではなく、カタルシスを呼び起こすものとされています。
この『カタルシス』はどう解釈するか、いまだに決着をみない言葉であります。
一般的には「浄化」だと見られていますが、色々な意見が有ります。
が、どうあれ、これを否定的な意味で捉える解釈は有りません。
何らかの肯定的な作用として「カタルシス」は捕らえられています。
人にはよりますが、人間の本来性を取り戻すと言う意味で考えられる事が多いようです。
しかしアリストテレスが社会性を考える場合に必ずしも堕落や快楽に対して無防備だったわけでは有りません。
娯楽としての芸術に対して無関心だったわけではない(当時、彫像は神殿など、劇はディオニソス祭などで行なわれて、今日の様に常時手軽に手に入ったわけでないことは考慮すべき)。
とはいえ、人間の本来性とその機能を考えたら必然的で重要なものが芸術でした。
さて、芸術にとってこれらのことは、『価値』の問題に則すると重要のポイントになります。
プラトンはイデアを前提にして人間的にも社会的にも「本質」から遠ざけ無用な煽動をするとして否定しました。
アリストテレスは専ら人間の本質として芸術を擁護しました。
どちらが正しいか?
私のような浅学の身には重過ぎる質問です。
しかし、改めて質問し直す事はできます。
人間にとって芸術はどうであるか?
社会にとって芸術はどうであるか?
社会を作るのは人間ですが、人間個人以上に社会にとっては統一的システムが必要とされています。
社会の構造の中に無秩序性があらざるをえないとしても、統治という観点から見ればまず秩序ありきです。
すなわち、統治する上では芸術による無闇な混乱は避けたい。
芸術は混乱か?
そう、感情と理性は、混沌と秩序の二分割に対応していました。
パトスとエトス、カオスとロゴスは、時に善悪にさえなりました。
混沌、不均衡は悪、理性、秩序は善という……これはしかし、幾何学的数学的神秘主義でもあります。数秘術や魔法陣、魔法円、カバリズムにせよ、一定の数学的秩序を持ち合わせているからこそ善であり神秘である本質的動因に働きかけているという発想につながりました……。
芸術は感情の側に有り、感情は混沌と類似、すなわち悪と考える事できます。
だから、秩序を中心とすべき『社会にとって芸術は対立する』ものである。
これはしかし、今日的発想とは言い難いでしょう。
が、そのことは追って述べます。
人間的な面に則して言えば、アリストテレスはミメーシスの哲学的側面と感情の初期化、浄化を認めていました。
感情は人間の本来備わっている物として、悪とはしていない。
理性を重んじるにしても、感情即悪ではなく、むしろ『人間にとって芸術は不可避』であるとさえかんがえられます。
プラトンは、ただ無闇な感情の上下であると感じていたようです。
二者とも意見は違いますが、しかし、少なくともこれだけは言っています。
すなわち、芸術が某かの感動を人に与えている、と。
それが感情のみであるために理性にとって有害か、人間の本来性である為に哲学的であるかは相違がありますが、人間が感動を得ている事を否定しません。
我々はここでようやく問題に着手する事が出来ます。
問題は感動なのです。
模倣。
近代の表現主義に至っても、未だに模倣です。
と言うのは、感情や雰囲気を再現しているからです。
シュルレアリスムも心理学的模倣ということになります。
パフォーマンスにしても、観客に作者の体験や思想を追体験させると言う部分があるうえでは模倣の領域を出ません。
芸術においては、模倣の問題は大変重要なことではあります。
何故なら、私達は模倣に対して感動を得ているからです。
リアルな表現と言うのは、ある種の感動を誘います。
が、それが単にリアリティだけで終った場合に感動を誘わないのは良く知られています。
例えば「日常」というテーマは現代で良く使われますが、日常を克明に淡々と切り取った場合、それは芸術と言うよりも退屈な再現に他なりません。
我々が模倣するのは何でしょうか?
それは優れている事物。
より感情をうごかす事物。
ある情景や場面や心情や、人、物、状況、思考過程、それらの特殊な事物であります。
つまり、その『ある種の感動体験の媒体』を再現することによって、人に感動を与えようとしているわけです。
それらは単なる再現ではありえません。
十分に何かを抽出させた再現です。
……しかしながら、一方で、単純無類の完璧な再現は感動を誘います。
完全な『単なる再現』です。
日常を克明に淡々と切り取ったとしても、それが細部に至るまで完全に再現されていると知ると我々は感動を覚えます。
極つまらない形をした人物像であろうとも、それが真に人間かのようであったらある種の感動を覚えます。
つまり、前者は感動体験そのものを作者が模倣し感動を与える場合。後者は再現という技術そのもので感動を与える場合。
と、なります。
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