え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
作品の金銭的な価値基準には色々ある。
物質的価値。
例えば、金細工は如何に無様であろうと金そのものの価値が見い出される。
美術的にどうこうという前に、素材が金銭的価値を出す場合。
これは絵画や立体に置いては“実費”といった事になろう。
が、往々にして売り手もしくは作者が実費以上を要求する場合でも、買い手がそれだけの価値を見い出さなかったら実費以下の価値になる。
専ら価値判断を“物体”においていないからだ。
しかし、貴金属をあえて大量に使う作品もある。
その場合は、「貴金属=高価」という前提を利用している為に、作品の価値そのものに物質の値段が関わる。
一方で『小さな紙に描いたドローイング』と『大作油画』の値段も違う。
一つは保存性の問題。
もう一つは、号数や作業時間が実費として考慮されているからだろう。
芸術的価値に対して金銭的価値は釣合うわけではない。
何故なら、作品が物だからだ。
商品は「芸術的な体験そのもの」ではなく、あくまで物体である。
この物体の価値は実際にはどうなっているのか?
骨董的価値。
骨董品が取り引きされる場合、その真贋と時代と希少性、保存状態などが値段に関わる。
芸術作品と呼ばれているものにも、往々にしてこの事は当てはまる。
その作者は誰か?いつ頃のものか?本当にそうか?
などというものが、その作品の作品性と関わるだろうか?
ローマ時代のギリシャ彫刻を摸刻した像を見た時に、その作者や時代を知らなくても「良い」と思える事は当り前の様にある。
とはいえ、人間は“視覚”によって情報を取り入れ、脳内で“知覚”となるのであれば、その歴史的証言力に十分な意味があるとも思える。
作品にせよ物体にせよ、表面に表われる記号は多い。
それは作品の形体や内容に留まらず、古さや時代性といったものも情報として発している。
我々が物を把握する際には、過去の記憶を参照する。
そして、作品が発している形体や内容にまとわりついている古さや時代性なんかも、自然に記憶との照合を行なって理解している。
すなわち、古い作品の芸術的価値を「古い事」によって人が見い出しても、それは嘘ではない。
その作品には既に古いと言う情報は不可分に関係しているからである。
古い作品と言うのは古い事によって「芸術的価値」を得ている。
『作品そのもの』と『それにまつわる諸々の要素』は不可分だし、全てを含めて作品はそこにあるはずだ。
しかし、そういう場合の「古さ」なんかは骨董的価値というよりも作品的価値という事になるはずだ。
が、それが金銭的な問題になると、『作品そのもの』より『諸々の要素』の方が先行する事がある。
つまり骨董的な価値として、作品の作品性から離れて、『諸々の要素』から作品を規定する場合だ。
その時には作品の資質に関わらず値段が設定され、価値が設定される。
希少性の問題もある。
希少である事は、前述の通り『作品そのもの』ではなく、『それにまつわる諸々の要素』として不可分のものだ。
ベンヤミンの言うところ、「アウラ」と言ったものがそれにあたるだろうか。
ということは、複製芸術にまで話を広げなければならない。
実際、映像作品や版画等では、摺数を規定し、通し番号を振り、原版を廃棄する事もある。
「いま」「ここで」の一回性を確保し、価値を生み出す必要があったからだ。
複製できるものを複製できない様にしてアウラを保持する。
……ところで、このアウラであるが、「いつでも」「どこでも」その作品を体験できるものには無いと言う。「いま」「ここで」しか体験できない作品にアウラはまつわる。
さて、しかし、個別的に考えれば、どのような作品にも「いま」「ここで」しか接しえないのではないか?
確かに映像作品であればDVD一枚持って自宅でもホールでも体験できる。
音楽に至っては、ポータブルプレーヤーによってそれこそどんな時でも体験できる。
しかし、実際には、体験しているのは個々の時と場所でではないか?
*途中
複製芸術には、その反復性と大量生産性が『諸々の要素』としてまつわっている。
絵画は老いる、或いは死ぬ。→デュシャン
一つの作品の中で反復を完結させるのではなく、つねに反復を可能にさせる複製芸術の工業性→ミニマリズムとして
物質的価値。
例えば、金細工は如何に無様であろうと金そのものの価値が見い出される。
美術的にどうこうという前に、素材が金銭的価値を出す場合。
これは絵画や立体に置いては“実費”といった事になろう。
が、往々にして売り手もしくは作者が実費以上を要求する場合でも、買い手がそれだけの価値を見い出さなかったら実費以下の価値になる。
専ら価値判断を“物体”においていないからだ。
しかし、貴金属をあえて大量に使う作品もある。
その場合は、「貴金属=高価」という前提を利用している為に、作品の価値そのものに物質の値段が関わる。
一方で『小さな紙に描いたドローイング』と『大作油画』の値段も違う。
一つは保存性の問題。
もう一つは、号数や作業時間が実費として考慮されているからだろう。
芸術的価値に対して金銭的価値は釣合うわけではない。
何故なら、作品が物だからだ。
商品は「芸術的な体験そのもの」ではなく、あくまで物体である。
この物体の価値は実際にはどうなっているのか?
骨董的価値。
骨董品が取り引きされる場合、その真贋と時代と希少性、保存状態などが値段に関わる。
芸術作品と呼ばれているものにも、往々にしてこの事は当てはまる。
その作者は誰か?いつ頃のものか?本当にそうか?
などというものが、その作品の作品性と関わるだろうか?
ローマ時代のギリシャ彫刻を摸刻した像を見た時に、その作者や時代を知らなくても「良い」と思える事は当り前の様にある。
とはいえ、人間は“視覚”によって情報を取り入れ、脳内で“知覚”となるのであれば、その歴史的証言力に十分な意味があるとも思える。
作品にせよ物体にせよ、表面に表われる記号は多い。
それは作品の形体や内容に留まらず、古さや時代性といったものも情報として発している。
我々が物を把握する際には、過去の記憶を参照する。
そして、作品が発している形体や内容にまとわりついている古さや時代性なんかも、自然に記憶との照合を行なって理解している。
すなわち、古い作品の芸術的価値を「古い事」によって人が見い出しても、それは嘘ではない。
その作品には既に古いと言う情報は不可分に関係しているからである。
古い作品と言うのは古い事によって「芸術的価値」を得ている。
『作品そのもの』と『それにまつわる諸々の要素』は不可分だし、全てを含めて作品はそこにあるはずだ。
しかし、そういう場合の「古さ」なんかは骨董的価値というよりも作品的価値という事になるはずだ。
が、それが金銭的な問題になると、『作品そのもの』より『諸々の要素』の方が先行する事がある。
つまり骨董的な価値として、作品の作品性から離れて、『諸々の要素』から作品を規定する場合だ。
その時には作品の資質に関わらず値段が設定され、価値が設定される。
希少性の問題もある。
希少である事は、前述の通り『作品そのもの』ではなく、『それにまつわる諸々の要素』として不可分のものだ。
ベンヤミンの言うところ、「アウラ」と言ったものがそれにあたるだろうか。
ということは、複製芸術にまで話を広げなければならない。
実際、映像作品や版画等では、摺数を規定し、通し番号を振り、原版を廃棄する事もある。
「いま」「ここで」の一回性を確保し、価値を生み出す必要があったからだ。
複製できるものを複製できない様にしてアウラを保持する。
……ところで、このアウラであるが、「いつでも」「どこでも」その作品を体験できるものには無いと言う。「いま」「ここで」しか体験できない作品にアウラはまつわる。
さて、しかし、個別的に考えれば、どのような作品にも「いま」「ここで」しか接しえないのではないか?
確かに映像作品であればDVD一枚持って自宅でもホールでも体験できる。
音楽に至っては、ポータブルプレーヤーによってそれこそどんな時でも体験できる。
しかし、実際には、体験しているのは個々の時と場所でではないか?
*途中
複製芸術には、その反復性と大量生産性が『諸々の要素』としてまつわっている。
絵画は老いる、或いは死ぬ。→デュシャン
一つの作品の中で反復を完結させるのではなく、つねに反復を可能にさせる複製芸術の工業性→ミニマリズムとして
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