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模倣という言葉が出ると、私達は身構えます。
というのもプラトン、アリストテレス以来「模倣」は芸術にとってのキータームになっているからです。
模倣、ミメーシス。
プラトンにとっては、芸術に類するものは模倣であるために無価値、むしろ有害とさえ考えました。
(これは教育にも関係する事ですが、それは別項を上げるつもりです。)
芸術とは模倣の技術である。
イデアの復写的産物である現実界を更に模しているということは、人をイデアより遠退かせることにほかならない。
上に芸術は理性ではなく、ただ快楽にのみ訴え、人はそれに満足を覚えざるをえない故、芸術は本質から遠ざける堕落的な害悪である。
という考え方でありました。
一方でアリストテレスは、人はそもそも模倣を好む生物であると看破します。
それは人が学ぶ生き物だから、模倣されたものに対して思い考えものである。
赤子が模倣から始めるのはわかりきっている。
そして、芸術は人にカタルシスを与え、本来的な人間へと戻す、或いは引き上げる。
と、解釈されます。
これはまったく、我々にとっては大きな問題です。
一方で価値が認められ、一方で害悪とさえ思われています。

芸術は害悪と結びつきました。
人間性と社会性の二つの面で考えましょう。
プラトンは哲学者による完璧な国家を考える上で、まず詩人を初めとする芸術家を排斥します。
無闇矢鱈に人の感情を刺激するからです。
良し悪しの判断ではなく、ただ感情によって人を動かすという「社会的害悪」であります。
これはソフィスト、弁論家のそれと同じ理由での排斥です。
ただ表面的なことによって人の感情を揺さぶり、理性による正しい判断や本質に則した知見とは無縁のもの、むしろそれを邪魔するものと考えられました。
私達が目にしているものは、“洞窟の比喩”を用いれば、影に過ぎないと言う事になります。
イデア、つまり『そのもの』『本質』の影絵です。
その影絵をさらに模倣し、無闇に感情や快楽へ訴えるのだから、意味が有るとはとてもいえない。
(「芸術」は、専ら彫像や絵画や劇(詩)を指しています)
哲人国家を理想とするプラトンにとって、芸術は社会的に容認しえないものでしたし、人間そのものにとっても非理性的で問題を孕んだものでした。
アリストテレスにとっての模倣(「再現」という言葉が使われます)は人間に備わった自然な傾向でありました。
人間は前提として再現されたものを喜びます。
例えば、悲劇的な戦争の場面であっても死体があらわれる場面であっても、現実の様に目を背けるよりはむしろ楽しむ(無論、喜々というのでなく感情を揺さぶられるという意味での)ことができる。
嘔吐するような悲惨な場面であっても再現されたものなら人は見る事ができ、満足さえ得るものです。
これは大いに示唆的です。
「人間は現実よりも再現を好む」というのは、基本的に作家に常に纏わりつく問題です。
話を戻します。
それで人間にとっての自然な欲求である再現への快楽は、ただそれだけではなく、カタルシスを呼び起こすものとされています。
この『カタルシス』はどう解釈するか、いまだに決着をみない言葉であります。
一般的には「浄化」だと見られていますが、色々な意見が有ります。
が、どうあれ、これを否定的な意味で捉える解釈は有りません。
何らかの肯定的な作用として「カタルシス」は捕らえられています。
人にはよりますが、人間の本来性を取り戻すと言う意味で考えられる事が多いようです。
しかしアリストテレスが社会性を考える場合に必ずしも堕落や快楽に対して無防備だったわけでは有りません。
娯楽としての芸術に対して無関心だったわけではない(当時、彫像は神殿など、劇はディオニソス祭などで行なわれて、今日の様に常時手軽に手に入ったわけでないことは考慮すべき)。
とはいえ、人間の本来性とその機能を考えたら必然的で重要なものが芸術でした。

さて、芸術にとってこれらのことは、『価値』の問題に則すると重要のポイントになります。
プラトンはイデアを前提にして人間的にも社会的にも「本質」から遠ざけ無用な煽動をするとして否定しました。
アリストテレスは専ら人間の本質として芸術を擁護しました。
どちらが正しいか?
私のような浅学の身には重過ぎる質問です。
しかし、改めて質問し直す事はできます。
人間にとって芸術はどうであるか?
社会にとって芸術はどうであるか?

社会を作るのは人間ですが、人間個人以上に社会にとっては統一的システムが必要とされています。
社会の構造の中に無秩序性があらざるをえないとしても、統治という観点から見ればまず秩序ありきです。
すなわち、統治する上では芸術による無闇な混乱は避けたい。
芸術は混乱か?
そう、感情と理性は、混沌と秩序の二分割に対応していました。
パトスとエトス、カオスとロゴスは、時に善悪にさえなりました。
混沌、不均衡は悪、理性、秩序は善という……これはしかし、幾何学的数学的神秘主義でもあります。数秘術や魔法陣、魔法円、カバリズムにせよ、一定の数学的秩序を持ち合わせているからこそ善であり神秘である本質的動因に働きかけているという発想につながりました……。
芸術は感情の側に有り、感情は混沌と類似、すなわち悪と考える事できます。
だから、秩序を中心とすべき『社会にとって芸術は対立する』ものである。
これはしかし、今日的発想とは言い難いでしょう。
が、そのことは追って述べます。
人間的な面に則して言えば、アリストテレスはミメーシスの哲学的側面と感情の初期化、浄化を認めていました。
感情は人間の本来備わっている物として、悪とはしていない。
理性を重んじるにしても、感情即悪ではなく、むしろ『人間にとって芸術は不可避』であるとさえかんがえられます。
プラトンは、ただ無闇な感情の上下であると感じていたようです。
二者とも意見は違いますが、しかし、少なくともこれだけは言っています。
すなわち、芸術が某かの感動を人に与えている、と。
それが感情のみであるために理性にとって有害か、人間の本来性である為に哲学的であるかは相違がありますが、人間が感動を得ている事を否定しません。

我々はここでようやく問題に着手する事が出来ます。
問題は感動なのです。
模倣。
近代の表現主義に至っても、未だに模倣です。
と言うのは、感情や雰囲気を再現しているからです。
シュルレアリスムも心理学的模倣ということになります。
パフォーマンスにしても、観客に作者の体験や思想を追体験させると言う部分があるうえでは模倣の領域を出ません。
芸術においては、模倣の問題は大変重要なことではあります。
何故なら、私達は模倣に対して感動を得ているからです。
リアルな表現と言うのは、ある種の感動を誘います。
が、それが単にリアリティだけで終った場合に感動を誘わないのは良く知られています。
例えば「日常」というテーマは現代で良く使われますが、日常を克明に淡々と切り取った場合、それは芸術と言うよりも退屈な再現に他なりません。
我々が模倣するのは何でしょうか?
それは優れている事物。
より感情をうごかす事物。
ある情景や場面や心情や、人、物、状況、思考過程、それらの特殊な事物であります。
つまり、その『ある種の感動体験の媒体』を再現することによって、人に感動を与えようとしているわけです。
それらは単なる再現ではありえません。
十分に何かを抽出させた再現です。
……しかしながら、一方で、単純無類の完璧な再現は感動を誘います。
完全な『単なる再現』です。
日常を克明に淡々と切り取ったとしても、それが細部に至るまで完全に再現されていると知ると我々は感動を覚えます。
極つまらない形をした人物像であろうとも、それが真に人間かのようであったらある種の感動を覚えます。
つまり、前者は感動体験そのものを作者が模倣し感動を与える場合。後者は再現という技術そのもので感動を与える場合。
と、なります。
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