忍者ブログ
え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
[4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

チベットでの暴動をうけて。

自分が思うに、チベットでの暴動は正体不明の状態であるように思う。
幾つかの状況を考える。
中国がチベットにしてきた事を歴史的に見れば、チベットは言語や種族に関して独立してしかるべき人々であるのに、中国が力で奪い取ったという状況を見る事ができる。
例えば、もし日本が中国を占領して何十年かたった時に、中国で暴動が起きたら中国人はそれを「不正」とはとらないだろう。
しかし、かといって暴動や力による行動が正しいと言いきるには、結構な覚悟がいる。
ほとんど無防備で敵陣に突っ込むような言論でもある。

と、ここで戦争やテロについても考える。
言論や交渉で解決できないような事は現実にあるわけだ。
不当。
服従を余儀なくされる状況。
そういう場合を脱するために肉体的力を使うのが悪い事か?
これは難しい話だ。
そもそも向こうが理性や正義感で話をしていないのだから、こっちもそのつもりで暴力に訴えかけて何が悪い?
言っても聞かないんだから手を出すしかない。
それは確かにわかる。
例えて言えば、地球を侵略した宇宙人に説得を試みても無駄だったから武装闘争をして自由を勝ち取るというストーリーと同じだ。
『悪い宇宙人』は漠然とした悪だ。
だが現実には様々な利益や隣同士の面倒な問題を孕んでいる。
太平洋戦争において日本は悪役だったし、今でも中国や韓国で悪く扱われる。
それは仕方がない事なのだろう。
だが、中国や韓国が他国を侵略しないと言う博愛的な理想を掲げているわけではない。

善悪は相対的に成りがちだ。
あらゆる戦いにおいて、「俺は悪の為に戦ってる」と言い切れるやつがいるか?
基本的には敵=悪を倒すために戦っている。
敵は悪なのだ。
そして自分は正義だ。
でなくてどうしてたたかいえるのだ。

報道を見ていると、中国の悪もチベットの暴力も見える。
これを自分達はどう判断したりあつかったらいいんだろう。
PR
ちょっと間があきました。
あまり個人的な事をだらだらと文章に残すのは、まったく自分の趣味ではないけれど、ちょっと身近にあった事を書く。

最近、自分は訃報を二つ聞いた。
一つは両親の共通の友人のもので、一つは友人の父であった。
前者は少しばかりの面識もあるが最近は全く会っていなかったし、会ったとて昔懐かしむような事も私には何もない。
後者においては一つも知らない。事実、名前すら。
それでも私はショックを……憂鬱な……気落ちさせられた。
なんだか肩や腰が重たくなってくるような、疲れに似たものを感じて、春のどうしようもない空気を嗅ぎながら頬を枕に埋めた。
どうしようもないなぁ、と思う。
いつの間にか自分は冬の服装を解いて、軽い春に向けた服を着ている。
時間は過ぎる。
年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず というわけだ。
いつの間にか自分は歳をとっている。
母は電話を取って凍りついた。
訃報だった。
何年かぶりに母の涙を見たような気がしたが、どうしてなのだろう、近しいものの涙はそれだけで辛い。
殊に親の涙なんて私は全然見たくない。
居場所がなくてオロオロしてしまう。
母は電話をおいて、半ば諦めたみたいに笑って
「もうわたしたちの親じゃなくてわたしたちの番になってきたのねぇ」
と言った。
母も父も人の子だった。
祖母は健在で、私達と一緒に暮らしている。
近頃、めっきりぼけてきて、老いの頑迷に拍車がかかったか人の言う事をきかない。
邪魔だとか嫌いだとかは言えやしないが、それでも鬱陶しく思う事もある。
自分はその思いを持て余す。
孔子は単に父母を養うことが孝行ではないと言った。
犬馬を養う様に衣食住を与えればそれで良いのか?
心のない態度で父母を養う事は孝行ではない。
私は鞭打たれるような気持ちになるのだが……何よりも自分が金を稼ぐわけでもなし、穀潰しもいいところで養うなんぞとは口の端に昇らせるわけにもいかない。
単に頭で考えているだけである。
……いつしかそれも過ぎ去るだろう。
孝行したい時に親は無し、だ。
誰もいつか死ぬだろう。
わかってるんだ。
誰だって死ぬって事はよくよくわかってるはずなんだ。
訃報。
新聞を見ろ、訃報は絶え間なくいつもいつも毎日毎日……テレビをつければ誰が死んだ殺された……小説、ドラマ、あらゆるフィクションでさえ人が死ぬのを知れる。
だけどやっぱり「わかってない」のだ。

ハムレットであるだろう。
死ぬか、眠るか、おそらく夢見るだろう……。
そうだ。
神々は優しい。
死ぬことの恐怖は、真っ暗になってしまうことだ。
永久の別れ、という言葉は使い古されてはいてもデルフォイの神託と同じく間違いはない。
死者には二度と会えない、死者は永久の孤独に落ちる。
しかし、この「孤独に落ちる」という言葉さえまだ救いだ。
本当は死から先には何もない。
完全な不在だ。
神々は、天国を作ったり復活させたりする。
人間には霊魂があって死後も存在する。
このことの何と救いか。
本当は、まったくの不在になってしまう。
墓?
葬式?
そんなものは死者の為にやることじゃない。
生者のためにやっているのだ、死んでもなお存在していると信じて安心したいのだ。
そして安心のうちに死者を追い出して生者の国を存続させるためにやっているのだろう。
神々は優しい存在だ。
私達はそう言うことを信じないと……少なくとも、私はそう言うことを信じることによって幾らでも精神が楽になる。
目に見えぬ存在なるものは、救いだ。
現実のバッサリした死を生のままで触れるには、我々の皮膚は薄くて弱い。
いずれ慣れるか遠ざけるかも知れないが、優しい服が欲しい。
神々が存在するかどうか、なんてのは二の次だ、存在しないと困るんだろうと思う。
二匹目の泥鰌を狙うという言葉は、それ自体で既に「失敗」を意味しているらしい。
ついさっき知った事だ。
「一匹目が釣れたからと言って、二匹目が釣れるとは限らない」
「柳の木の下で一度泥鰌を捕らえたことがあったからといって、いつもそこに泥鰌がいるとは限らない。一度まぐれ当たりの幸運を得たからといって、再度同じ方法で幸運が得られると思うのは間違いである」
のだそうである。
大体『守株』に近い意味だろうか。
『馬鹿の一つ覚え』にも近そうだ。

そういえば、先年か先々年に『国家の品格』という本がベストセラーになって、「品格」なる言葉が巷間に聞かれる様になった。
やれやれだな。
大道廃れて仁義あり、と言った感を思えざるを得ない。
とはいえ品性なり品格なりと言う事が評価されるのは、それなりに良い事だからあまり水を注すべきではないだろう。
先年だったはずだが、『女性の品格』と『親の品格』なる本も出ていた。
著者は『国家〜』の藤原某ではない。
内容は知らないが、どうだろうこのタイトル。
どちらが先に出したのだか知らないが、僕はあまりこれが品のあるタイトルだと、要するに「二匹目の泥鰌を狙って」いるようなタイトルだと見えてしまう。
まあ、二匹目の泥鰌は失敗する予定なのだが、普段からこういった本に疎い僕が知っている以上売れ行きは上々なんだろう。
むしろ「二番煎じ」ってことか。
何にせよ、最近売れまくった本のタイトルをパロディするようなのは、あんまり品のあるやり方じゃあない。

しかし、この守株主義と言うか、あやかろうという遣り方は品性云々ではなく、「あこがれ」というものでもあるような気がする。
往々にして、人が何かを始める時は「真似る」ことから始める。
それを学習といいかえてもいい。
勿論、制作ということであっても、なんの隔てなく「真似る」という行為は行なわれる。
オリジナリティなどというものとはまた別の問題で、「真似る」ことは人間本来に備わってる能力だから、避けようのないことだ。
「自分もああいうのが造りたい」とか。
「あの作品は自分を表現している」とか。
どう言う場合であれ、憧れや真似ということは、二番煎じであることと似ている。
昔からモーパッサンの短編が大の好物で、ほとんど自分の中の文学の端緒をそこに求めたいくらいだった。
実際にはぼんやりとほぐれた糸口が次第にあざなわれ、なにか形作っているのだろう。
細々した何かが堆積して行って土台になっているのだ。
決して一つの物が最下層で地盤を為しているわけではないと思う……何かが基盤を為していると言うのは、今ここに立って地面の中を透視して言っているのに等しい。
透視なんぞできるか?
いいや。
ただ思い込んでいるに過ぎない。
ともあれ、モーパッサンだ……。

「水の上」、という短編がある。
彼の短編が好きだと言ったが、もっと限定して言えば、怪談が好きなのだった。
とりわけ僕が未だに覚えているのが、こういう話だ。

二人の青年がいる。
一人の少女がいる。
夏だ、ルノアールが描くような夏だった、帽子が紫色の影で目深く覆い肌が白く照り返る。
そこには川がある。
遊覧船のようなボートだ、サンドウィッチ、葦間から蒸気がたまらない匂いをあげる、川面が光る。
うららかな日だった。

……
さて、これ以上覚えていない。
確か死体が出てくるのだ、いや、この少女が死んでしまうのだったか。
うららかな夏の、どうかすると川面から蒸気が立ち昇る日射しが、無気味だった。
何故死んでしまうのか?
いや、そもそも誰が死ぬのか?
話のオチは?
そこらへんがまったく覚えていない。
ただ、その情景と水の中の死体がいやに無気味に思い出されるのだ。
いったい、自分は何を読んだのだろうか。
思い返してモーパッサンの怪奇短編集をつまみ読みしたのだが、そんなのは何処にもないのだった。
「水の上」という話はあった。
ただそれは年をくった男が夜に怪奇にあう話だ。
じゃあ、自分は何を見たのだろう。
夢か?
それとも記憶の混乱か?
それはそれでいいのだ、記憶が混乱していても、自分にとっては何か印象の深い体験に返るのだったら。
もう詮索しない方がよいのかもしれない。
素敵な幻は、そのまま残しておいたほうがいいのかもしれない。
ここに一隻の船がある。
外観は……何でもいが、50人程が乗れる物で良いだろう……ただ、激しい航海だったのだろう、あちこち傷がついてしまっている。
船の名前は例えば「iisi」号で良いだろうか。

この船は今から修繕されるべく船大工達の手にかかっていた。
船長は港でぼんやりとそれを見ている。
若い人足が空き缶にコーヒーをいれてやってくる。
ふ、と沖合いに眼をやりながら「ところで」と問う。
「海ってのはどれかね?」
男はぎょっとする。
「それですよ、それ」
「この水たまり?」
「そうですとも」
「それじゃあ、お前が渡してくれたこの缶……コップ……いや、なんでもいい、これにだね……こう海に突っ込んで水を入れるとするだろう?そしたらこの空き缶の中に入ってるのは海かね?」
「さあ、違うんじゃないですか?」
「じゃあ何?」
「海水」
「なら、この空き缶を海に突っ込んだままにしておいたら、どうかね」
「さあ?」
「海と同じ大きさの缶に入れたら?」
「俺に聞かれてもわかりませんよ。学校行ってないんだから」
「学校で教えてくれたら俺だって、なぁ、こんなこと今更聞いてないよ」
「なんです?妙なことばっかり」
「船があるだろ、あの船……名前知ってるな」
「iisi?ええ、もちろん。それが?」
「あれ、あの名前おかしいだろ?おかしいんだよ、ある親爺に付けてもらった名前なんだが……哲学のナントカがドウしたっていうんで……つまり『私は私』って言う名前をつけたかったんだよ」
「はあ」
「I is I……って何だ?I am Iじゃないんだよ。その親爺さん英語わかんねぇんだな、間違えてんだよ。『私は私』なのに、三人称なんだ。自分で自分のことを確認してるんじゃなくて、『私』って他者が『私』を確認してるんだな」
「何の話をしたいんです?」
船長は缶を持った手で船の方を指す。
「お前も船着き場で働いてんなら、関係のある話なんだ。あの船を、なおすだろ。全部なおすんだよ」
「で?」
「もう四五回は修理してるんだが、マストを除いて、最初の時と同じものが一つも残ってないんだ。そのマストも含めて、今回は修理する。つまり、まるっきり最初の時と同じ物じゃないんだな。それでも俺達はあれをiisi号だって言うだろ?」
「そうですね。俺は多分、そう言うと思います」
「なんでだ?」
「さあ?同じ形をしてるからじゃないですか?」
「同じ材料じゃないんだぜ?」
「じゃあ同じ材料ならいいんですか」
「同じ材料を使って……そうだな、あの材料をバラバラにして小屋を組み立てたら、それはiisi号か?」
「違うでしょうね」
「放っておいて朽ちて藻屑になっちまったらiisi号か?」
「ううん……わからないな」
「焼いて灰にしたら?」
「それは違う。もう船でも何でもない」
「じゃあ、船だったら良いのか?」
「少なくとも船じゃないと」
「マストや甲板を全部ひっぺがして海に浮かんでるだけでも?」
「ええ、ええ。それはまだ船だし」
「じゃあ、船底にドでかい穴が開いてたら、船としちゃ使えないから船じゃなくなっちまうわな?」
「それも違う気がするな……」
「あの船を全部ぶっ壊して灰にして、別の……アララト山で別の材料を使って同じ形の船を作ったら、それはiisi号だろうか?」
「別の場所、別の材料、別の人の手になる……同じ、かな?」
「形が同じだから?」
「じゃあ、紙のハリボテで同じ物だったらどうなんでしょうね」
「紙じゃあ沈んじまうしな」
船長、と堀の深いいささか甘ったるい顔をした男が走りよってきた。
「うん?」
「なんだか、大砲を取り外すとか言う話ですよ」
「なんで?」
「さてね。しかし、予算の関係上、大分形は変わっちまうらしいですが」
「そうかい」
それだけ言うと男は走り去る。
船長は鼻を揉んだ。
くしゃみが出る。
「水面に映った、もしくは鏡に映った、絵に描いたiisi号は?」
「違う物でしょ?」
「でも形は同じだ。……あの船、形変わっちまうんだなぁ」
「それでも同じ物ですよ」
「そういう気がする」
もう一度、くしゃみが出る。
「例えば、俺達が全滅してさ。誰も人間がいなくなって、機械が時々思い出した様に船を修理し続けて、どんどん形が変わっちまったら、どうなんだろう?」
「誰も名前を呼ばないんだから、なんとも」
「名前ねぇ……」
ボクシングやっていたそうですね。
見損ねたのですが、亀田対内藤は内藤の圧勝だったそうで。

僕はボクシングの事をほとんど知らないのだが、亀田のビッグマウスは時々テレビで見て知っている。
僕にとっては「口が汚い」とか「不良上がり」とか、そういうイメージがボクサーにはある。
もっとも、僕の知ってるボクサーの名前など片手で十分足りてしまうくらいだが……。
多分、辰吉とかタイソンとか矢吹ジョーとか、そういうところから来る曖昧なイメージなのだが。

ともあれ、亀田に対するアンチは多いし、僕も好きではない。
罵倒や傲岸不遜が気に食わないのであろうか?
しかし、なぜ?
僕自身はヒールが嫌いなわけではない。
例えば、バダ・ハリのような凶暴な選手も中々好きだ。

恐らくこの差は、背景によるのであろう。

“ビッグマウス”と言うものに私達は何を見るのだろうか?と考えた時に、まず超然というものが浮かんでくる。
自分に自信があり、何者にもおもねらない態度である。
翻って私達がそこに良いイメージを投射する時、反権力や自己実現を専ら映し出す。
だが亀田の後ろにはテレビスタッフ、金、その二つが明らかに権力を示唆している。
亀田はどちらかといえば権力側の人間なのだ。
「温室育ち」的マッチメイクや疑惑の判定や特別措置という権力の行使を目の当たりにしつつ、亀田のビッグマウスを聞くと言うのは、流石にやりきれないものがある。
亀田家は権力側なのだ。
権力側の悪態は、金持ちの悪ガキに似て見えてしまってもしょうがないと思う。

今回の事で言えば、試合用の用具他全て合わせて一千万円かかったそうだ。
これは内藤のファイトマネー(?)と同額らしい。
ところが、週刊文春によると亀田には八千万……ランクが下のものの方が稼いでいることになる。
まったくテレビ、スポンサー、権力が見えて仕方がない。
少なくともスポーツに対して私達はフェアである事、言い換えれば、ある限定の中で実力によってのみ評価が決する事を望んでいる。
外面的なことであるが、私達はここに正当な評価を見る事が出来ない。

ヒールは往々にして反権力的だ。
下層階級であったり反政府的であったり、馬鹿でも何でも抵抗主義者だ。
権力に与するヒールはショー的である。
ヒールが無知である理由や社会的でない理由はその生まれ育ちの社会的劣悪さに由来していて欲しいと私達は思う。
それは過度に甘やかされていたり貧乏だったり。
十分な反抗にたる理由が欲しいものだし、反抗的であって欲しい。
単純に喧嘩相手に場当たり的に威嚇するのではなくて、一貫した鬱屈や怒りを見い出したい。
多分、それが正当なヒールだ。
ショー的なヒールはもっと悪党に徹すると思うが。


物語では、困難を実力で排して栄冠を手に入れる者が典型的ヒーローと思われる。
もしくは天衣無縫で問答無用に強い天才的ヒーローも古典的だろう。
しかし亀田はそういった物語に沿わない。
むしろダーティとも言える雰囲気が漂っている。
権力的なものによって作られたヒーロー像が見えるからだ。
実際の所がどうであったか、という事ではなく、私達の目に見えるのがどういうものかということだ。
彼等の態度が決して無垢な天衣無縫には見えない。
メディアの権力と我々の近くにあるかもしれない非行的な“傍若無人な無知”である。
これは少なからず問題だ。
私達が“野生人”を見て楽しむ時には、社会を批判する“素晴しき放浪者”か“馬鹿な道化者”か“聖なる無垢”かであろう。
社会の支配的機構に祭り上げられた非行児は、既にしてゾッとするものがある。
しかもそれが増長止むところ知らず、トレーナーの態度が、我々の拠り所にする科学でも伝統的精神論でもなく、奇妙に独自な精神論である。
この物語を背景にして、終始相手を罵倒するとなると、もはや怪物的である。
これは気味が悪い。

そういった“亀田家”という物語に問題があるのだろう。
実力の程を僕は詳しくは知らないが、批難に晒される原因はそこにあるのだろう。
問題は悪態でも実力でもなく、それらを含む背景にあるのではないだろうか。
沢尻という女優を私はほとんど知らない。
唯一知っているのは、CMで髪の毛がどんどん変化するのがあるが、あれだけだ。
最近聞いたところでは「パッチギ」に出ていたのだとか。
その「パッチギ」を見ていないのだから知りようもない。

彼女は最近非常に騒がしい。
何でも舞台挨拶で三言しか喋らず、不遜高慢と言われた挙げ句泣いて謝罪したとか。

とても面白い女性だ。
何を考えているかわからないと言うよりも、メディアに対するアピールを取りそこねてるのだろうか?
何でも彼女は「女王様」の様に振る舞うのが売りだとか。
もっとも、この「女王様」という言葉には『高貴』や『高潔』というものはなく、専ら童話やSMプレイの女王様に近い『高慢』や『自己中心的』という意味が込められているようだ。
女王という言葉は必然的に国民を指示する(一国のトップか、その伴侶を意味するのだから、どうしたって国民がいなければ女王などありえない)のだが、この場合の「女王様」は敢然にキャラクタライズされた“女王様キャラ”として言われているようだ。

彼女自身がメディアの欲求に答えようとして、わざわざ不遜な態度をとったのだろうか?
まあ、真意は私にはわからない。
ただ興味を引かれたのは謝罪の言葉である。
「諸悪の根源は私にある」と言ったとかなんとか。

間抜けと言うよりも、いっそビックリさせる。
何故わざわざ「諸悪の根源」などという言葉を使ったのだろうと思ってしまう。
そんなことみんなわかってるのだ。
「諸悪」も何も、問題は彼女に終始しているのだし、彼女の行動のみに関してるのだからわざわざそんなもったいぶった言い方をしなくてよい。
この言い方は奇妙だ。
下手な政治家みたいな言い方ではないか。

背伸びして難しい言葉を使おうと思ったのだろうか?
テンパって妙な事を言ってしまったのだろうか?
何にせよ、非常に面白い。

不遜な態度やビッグマウスは、ある性質を示唆している。
反発をかう事をも厭わない強烈な自負心、自分の能力に対する自信をである。
彼女はその自負心を一種の売りとしていたのだろうに、一転して涙の謝罪とはどういうことだろう?
キャラクターが一定しない。
自負心があるのかないのかわからない。
しかし。
謝罪の言葉に「諸悪の根源は私にある」などという政治家的な持って回った言い方をする。
これは単なる謝罪ではなく一種のアピールに見える。
彼女は自負心を捨てているわけではなく、暗にアピールする方途を選んだだけに過ぎない。

恐らく彼女のキャラが虚心坦懐で真面目一途になることはないだろう。
本当の所はどうかしれぬが、傲岸不遜でありつづけるだろう。
なんだかおもしろい女優である。
これからどういうキャラをアピールするのだろう?
ツイッター
夢占い出来るです キーワード入れてくだしあ
夢占い 夢ココロ占い (キーワードをスペース区切りで入力してください。)
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
orzorzorzorzorzorz
orzorzorzorzorzorz
プロフィール
HN:
くら
性別:
男性
趣味:
映画、音楽、文学。と至って普通の趣味。 ああ、あと最近は自転車レースも好き
ブログ内検索
最新コメント
[05/22 BlogPetのこうさぎ]
[12/13 くら]
[07/06 くら]
[07/04 くら]
[07/03 くら]
最新トラックバック
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]