え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
ボクシングやっていたそうですね。
見損ねたのですが、亀田対内藤は内藤の圧勝だったそうで。
僕はボクシングの事をほとんど知らないのだが、亀田のビッグマウスは時々テレビで見て知っている。
僕にとっては「口が汚い」とか「不良上がり」とか、そういうイメージがボクサーにはある。
もっとも、僕の知ってるボクサーの名前など片手で十分足りてしまうくらいだが……。
多分、辰吉とかタイソンとか矢吹ジョーとか、そういうところから来る曖昧なイメージなのだが。
ともあれ、亀田に対するアンチは多いし、僕も好きではない。
罵倒や傲岸不遜が気に食わないのであろうか?
しかし、なぜ?
僕自身はヒールが嫌いなわけではない。
例えば、バダ・ハリのような凶暴な選手も中々好きだ。
恐らくこの差は、背景によるのであろう。
“ビッグマウス”と言うものに私達は何を見るのだろうか?と考えた時に、まず超然というものが浮かんでくる。
自分に自信があり、何者にもおもねらない態度である。
翻って私達がそこに良いイメージを投射する時、反権力や自己実現を専ら映し出す。
だが亀田の後ろにはテレビスタッフ、金、その二つが明らかに権力を示唆している。
亀田はどちらかといえば権力側の人間なのだ。
「温室育ち」的マッチメイクや疑惑の判定や特別措置という権力の行使を目の当たりにしつつ、亀田のビッグマウスを聞くと言うのは、流石にやりきれないものがある。
亀田家は権力側なのだ。
権力側の悪態は、金持ちの悪ガキに似て見えてしまってもしょうがないと思う。
今回の事で言えば、試合用の用具他全て合わせて一千万円かかったそうだ。
これは内藤のファイトマネー(?)と同額らしい。
ところが、週刊文春によると亀田には八千万……ランクが下のものの方が稼いでいることになる。
まったくテレビ、スポンサー、権力が見えて仕方がない。
少なくともスポーツに対して私達はフェアである事、言い換えれば、ある限定の中で実力によってのみ評価が決する事を望んでいる。
外面的なことであるが、私達はここに正当な評価を見る事が出来ない。
ヒールは往々にして反権力的だ。
下層階級であったり反政府的であったり、馬鹿でも何でも抵抗主義者だ。
権力に与するヒールはショー的である。
ヒールが無知である理由や社会的でない理由はその生まれ育ちの社会的劣悪さに由来していて欲しいと私達は思う。
それは過度に甘やかされていたり貧乏だったり。
十分な反抗にたる理由が欲しいものだし、反抗的であって欲しい。
単純に喧嘩相手に場当たり的に威嚇するのではなくて、一貫した鬱屈や怒りを見い出したい。
多分、それが正当なヒールだ。
ショー的なヒールはもっと悪党に徹すると思うが。
物語では、困難を実力で排して栄冠を手に入れる者が典型的ヒーローと思われる。
もしくは天衣無縫で問答無用に強い天才的ヒーローも古典的だろう。
しかし亀田はそういった物語に沿わない。
むしろダーティとも言える雰囲気が漂っている。
権力的なものによって作られたヒーロー像が見えるからだ。
実際の所がどうであったか、という事ではなく、私達の目に見えるのがどういうものかということだ。
彼等の態度が決して無垢な天衣無縫には見えない。
メディアの権力と我々の近くにあるかもしれない非行的な“傍若無人な無知”である。
これは少なからず問題だ。
私達が“野生人”を見て楽しむ時には、社会を批判する“素晴しき放浪者”か“馬鹿な道化者”か“聖なる無垢”かであろう。
社会の支配的機構に祭り上げられた非行児は、既にしてゾッとするものがある。
しかもそれが増長止むところ知らず、トレーナーの態度が、我々の拠り所にする科学でも伝統的精神論でもなく、奇妙に独自な精神論である。
この物語を背景にして、終始相手を罵倒するとなると、もはや怪物的である。
これは気味が悪い。
そういった“亀田家”という物語に問題があるのだろう。
実力の程を僕は詳しくは知らないが、批難に晒される原因はそこにあるのだろう。
問題は悪態でも実力でもなく、それらを含む背景にあるのではないだろうか。
見損ねたのですが、亀田対内藤は内藤の圧勝だったそうで。
僕はボクシングの事をほとんど知らないのだが、亀田のビッグマウスは時々テレビで見て知っている。
僕にとっては「口が汚い」とか「不良上がり」とか、そういうイメージがボクサーにはある。
もっとも、僕の知ってるボクサーの名前など片手で十分足りてしまうくらいだが……。
多分、辰吉とかタイソンとか矢吹ジョーとか、そういうところから来る曖昧なイメージなのだが。
ともあれ、亀田に対するアンチは多いし、僕も好きではない。
罵倒や傲岸不遜が気に食わないのであろうか?
しかし、なぜ?
僕自身はヒールが嫌いなわけではない。
例えば、バダ・ハリのような凶暴な選手も中々好きだ。
恐らくこの差は、背景によるのであろう。
“ビッグマウス”と言うものに私達は何を見るのだろうか?と考えた時に、まず超然というものが浮かんでくる。
自分に自信があり、何者にもおもねらない態度である。
翻って私達がそこに良いイメージを投射する時、反権力や自己実現を専ら映し出す。
だが亀田の後ろにはテレビスタッフ、金、その二つが明らかに権力を示唆している。
亀田はどちらかといえば権力側の人間なのだ。
「温室育ち」的マッチメイクや疑惑の判定や特別措置という権力の行使を目の当たりにしつつ、亀田のビッグマウスを聞くと言うのは、流石にやりきれないものがある。
亀田家は権力側なのだ。
権力側の悪態は、金持ちの悪ガキに似て見えてしまってもしょうがないと思う。
今回の事で言えば、試合用の用具他全て合わせて一千万円かかったそうだ。
これは内藤のファイトマネー(?)と同額らしい。
ところが、週刊文春によると亀田には八千万……ランクが下のものの方が稼いでいることになる。
まったくテレビ、スポンサー、権力が見えて仕方がない。
少なくともスポーツに対して私達はフェアである事、言い換えれば、ある限定の中で実力によってのみ評価が決する事を望んでいる。
外面的なことであるが、私達はここに正当な評価を見る事が出来ない。
ヒールは往々にして反権力的だ。
下層階級であったり反政府的であったり、馬鹿でも何でも抵抗主義者だ。
権力に与するヒールはショー的である。
ヒールが無知である理由や社会的でない理由はその生まれ育ちの社会的劣悪さに由来していて欲しいと私達は思う。
それは過度に甘やかされていたり貧乏だったり。
十分な反抗にたる理由が欲しいものだし、反抗的であって欲しい。
単純に喧嘩相手に場当たり的に威嚇するのではなくて、一貫した鬱屈や怒りを見い出したい。
多分、それが正当なヒールだ。
ショー的なヒールはもっと悪党に徹すると思うが。
物語では、困難を実力で排して栄冠を手に入れる者が典型的ヒーローと思われる。
もしくは天衣無縫で問答無用に強い天才的ヒーローも古典的だろう。
しかし亀田はそういった物語に沿わない。
むしろダーティとも言える雰囲気が漂っている。
権力的なものによって作られたヒーロー像が見えるからだ。
実際の所がどうであったか、という事ではなく、私達の目に見えるのがどういうものかということだ。
彼等の態度が決して無垢な天衣無縫には見えない。
メディアの権力と我々の近くにあるかもしれない非行的な“傍若無人な無知”である。
これは少なからず問題だ。
私達が“野生人”を見て楽しむ時には、社会を批判する“素晴しき放浪者”か“馬鹿な道化者”か“聖なる無垢”かであろう。
社会の支配的機構に祭り上げられた非行児は、既にしてゾッとするものがある。
しかもそれが増長止むところ知らず、トレーナーの態度が、我々の拠り所にする科学でも伝統的精神論でもなく、奇妙に独自な精神論である。
この物語を背景にして、終始相手を罵倒するとなると、もはや怪物的である。
これは気味が悪い。
そういった“亀田家”という物語に問題があるのだろう。
実力の程を僕は詳しくは知らないが、批難に晒される原因はそこにあるのだろう。
問題は悪態でも実力でもなく、それらを含む背景にあるのではないだろうか。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
ツイッター
夢占い出来るです キーワード入れてくだしあ
カレンダー
05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
orzorzorzorzorzorz
orzorzorzorzorzorz
プロフィール
HN:
くら
性別:
男性
趣味:
映画、音楽、文学。と至って普通の趣味。 ああ、あと最近は自転車レースも好き
最新記事
(12/02)
(11/18)
(11/04)
(10/21)
(10/07)
カテゴリー
ブログ内検索
最新トラックバック