え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
ここに一隻の船がある。
外観は……何でもいが、50人程が乗れる物で良いだろう……ただ、激しい航海だったのだろう、あちこち傷がついてしまっている。
船の名前は例えば「iisi」号で良いだろうか。
この船は今から修繕されるべく船大工達の手にかかっていた。
船長は港でぼんやりとそれを見ている。
若い人足が空き缶にコーヒーをいれてやってくる。
ふ、と沖合いに眼をやりながら「ところで」と問う。
「海ってのはどれかね?」
男はぎょっとする。
「それですよ、それ」
「この水たまり?」
「そうですとも」
「それじゃあ、お前が渡してくれたこの缶……コップ……いや、なんでもいい、これにだね……こう海に突っ込んで水を入れるとするだろう?そしたらこの空き缶の中に入ってるのは海かね?」
「さあ、違うんじゃないですか?」
「じゃあ何?」
「海水」
「なら、この空き缶を海に突っ込んだままにしておいたら、どうかね」
「さあ?」
「海と同じ大きさの缶に入れたら?」
「俺に聞かれてもわかりませんよ。学校行ってないんだから」
「学校で教えてくれたら俺だって、なぁ、こんなこと今更聞いてないよ」
「なんです?妙なことばっかり」
「船があるだろ、あの船……名前知ってるな」
「iisi?ええ、もちろん。それが?」
「あれ、あの名前おかしいだろ?おかしいんだよ、ある親爺に付けてもらった名前なんだが……哲学のナントカがドウしたっていうんで……つまり『私は私』って言う名前をつけたかったんだよ」
「はあ」
「I is I……って何だ?I am Iじゃないんだよ。その親爺さん英語わかんねぇんだな、間違えてんだよ。『私は私』なのに、三人称なんだ。自分で自分のことを確認してるんじゃなくて、『私』って他者が『私』を確認してるんだな」
「何の話をしたいんです?」
船長は缶を持った手で船の方を指す。
「お前も船着き場で働いてんなら、関係のある話なんだ。あの船を、なおすだろ。全部なおすんだよ」
「で?」
「もう四五回は修理してるんだが、マストを除いて、最初の時と同じものが一つも残ってないんだ。そのマストも含めて、今回は修理する。つまり、まるっきり最初の時と同じ物じゃないんだな。それでも俺達はあれをiisi号だって言うだろ?」
「そうですね。俺は多分、そう言うと思います」
「なんでだ?」
「さあ?同じ形をしてるからじゃないですか?」
「同じ材料じゃないんだぜ?」
「じゃあ同じ材料ならいいんですか」
「同じ材料を使って……そうだな、あの材料をバラバラにして小屋を組み立てたら、それはiisi号か?」
「違うでしょうね」
「放っておいて朽ちて藻屑になっちまったらiisi号か?」
「ううん……わからないな」
「焼いて灰にしたら?」
「それは違う。もう船でも何でもない」
「じゃあ、船だったら良いのか?」
「少なくとも船じゃないと」
「マストや甲板を全部ひっぺがして海に浮かんでるだけでも?」
「ええ、ええ。それはまだ船だし」
「じゃあ、船底にドでかい穴が開いてたら、船としちゃ使えないから船じゃなくなっちまうわな?」
「それも違う気がするな……」
「あの船を全部ぶっ壊して灰にして、別の……アララト山で別の材料を使って同じ形の船を作ったら、それはiisi号だろうか?」
「別の場所、別の材料、別の人の手になる……同じ、かな?」
「形が同じだから?」
「じゃあ、紙のハリボテで同じ物だったらどうなんでしょうね」
「紙じゃあ沈んじまうしな」
船長、と堀の深いいささか甘ったるい顔をした男が走りよってきた。
「うん?」
「なんだか、大砲を取り外すとか言う話ですよ」
「なんで?」
「さてね。しかし、予算の関係上、大分形は変わっちまうらしいですが」
「そうかい」
それだけ言うと男は走り去る。
船長は鼻を揉んだ。
くしゃみが出る。
「水面に映った、もしくは鏡に映った、絵に描いたiisi号は?」
「違う物でしょ?」
「でも形は同じだ。……あの船、形変わっちまうんだなぁ」
「それでも同じ物ですよ」
「そういう気がする」
もう一度、くしゃみが出る。
「例えば、俺達が全滅してさ。誰も人間がいなくなって、機械が時々思い出した様に船を修理し続けて、どんどん形が変わっちまったら、どうなんだろう?」
「誰も名前を呼ばないんだから、なんとも」
「名前ねぇ……」
外観は……何でもいが、50人程が乗れる物で良いだろう……ただ、激しい航海だったのだろう、あちこち傷がついてしまっている。
船の名前は例えば「iisi」号で良いだろうか。
この船は今から修繕されるべく船大工達の手にかかっていた。
船長は港でぼんやりとそれを見ている。
若い人足が空き缶にコーヒーをいれてやってくる。
ふ、と沖合いに眼をやりながら「ところで」と問う。
「海ってのはどれかね?」
男はぎょっとする。
「それですよ、それ」
「この水たまり?」
「そうですとも」
「それじゃあ、お前が渡してくれたこの缶……コップ……いや、なんでもいい、これにだね……こう海に突っ込んで水を入れるとするだろう?そしたらこの空き缶の中に入ってるのは海かね?」
「さあ、違うんじゃないですか?」
「じゃあ何?」
「海水」
「なら、この空き缶を海に突っ込んだままにしておいたら、どうかね」
「さあ?」
「海と同じ大きさの缶に入れたら?」
「俺に聞かれてもわかりませんよ。学校行ってないんだから」
「学校で教えてくれたら俺だって、なぁ、こんなこと今更聞いてないよ」
「なんです?妙なことばっかり」
「船があるだろ、あの船……名前知ってるな」
「iisi?ええ、もちろん。それが?」
「あれ、あの名前おかしいだろ?おかしいんだよ、ある親爺に付けてもらった名前なんだが……哲学のナントカがドウしたっていうんで……つまり『私は私』って言う名前をつけたかったんだよ」
「はあ」
「I is I……って何だ?I am Iじゃないんだよ。その親爺さん英語わかんねぇんだな、間違えてんだよ。『私は私』なのに、三人称なんだ。自分で自分のことを確認してるんじゃなくて、『私』って他者が『私』を確認してるんだな」
「何の話をしたいんです?」
船長は缶を持った手で船の方を指す。
「お前も船着き場で働いてんなら、関係のある話なんだ。あの船を、なおすだろ。全部なおすんだよ」
「で?」
「もう四五回は修理してるんだが、マストを除いて、最初の時と同じものが一つも残ってないんだ。そのマストも含めて、今回は修理する。つまり、まるっきり最初の時と同じ物じゃないんだな。それでも俺達はあれをiisi号だって言うだろ?」
「そうですね。俺は多分、そう言うと思います」
「なんでだ?」
「さあ?同じ形をしてるからじゃないですか?」
「同じ材料じゃないんだぜ?」
「じゃあ同じ材料ならいいんですか」
「同じ材料を使って……そうだな、あの材料をバラバラにして小屋を組み立てたら、それはiisi号か?」
「違うでしょうね」
「放っておいて朽ちて藻屑になっちまったらiisi号か?」
「ううん……わからないな」
「焼いて灰にしたら?」
「それは違う。もう船でも何でもない」
「じゃあ、船だったら良いのか?」
「少なくとも船じゃないと」
「マストや甲板を全部ひっぺがして海に浮かんでるだけでも?」
「ええ、ええ。それはまだ船だし」
「じゃあ、船底にドでかい穴が開いてたら、船としちゃ使えないから船じゃなくなっちまうわな?」
「それも違う気がするな……」
「あの船を全部ぶっ壊して灰にして、別の……アララト山で別の材料を使って同じ形の船を作ったら、それはiisi号だろうか?」
「別の場所、別の材料、別の人の手になる……同じ、かな?」
「形が同じだから?」
「じゃあ、紙のハリボテで同じ物だったらどうなんでしょうね」
「紙じゃあ沈んじまうしな」
船長、と堀の深いいささか甘ったるい顔をした男が走りよってきた。
「うん?」
「なんだか、大砲を取り外すとか言う話ですよ」
「なんで?」
「さてね。しかし、予算の関係上、大分形は変わっちまうらしいですが」
「そうかい」
それだけ言うと男は走り去る。
船長は鼻を揉んだ。
くしゃみが出る。
「水面に映った、もしくは鏡に映った、絵に描いたiisi号は?」
「違う物でしょ?」
「でも形は同じだ。……あの船、形変わっちまうんだなぁ」
「それでも同じ物ですよ」
「そういう気がする」
もう一度、くしゃみが出る。
「例えば、俺達が全滅してさ。誰も人間がいなくなって、機械が時々思い出した様に船を修理し続けて、どんどん形が変わっちまったら、どうなんだろう?」
「誰も名前を呼ばないんだから、なんとも」
「名前ねぇ……」
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今では極当り前になった感のあるコンセプチュアル・アートだが、それは一体どういったものだろう?
ソル・ルウィットの言う“アイデアが芸術の作り手”とは何なのだろう?
思うに、まず、これは作品を原理になるまで削り落す事だ。
それがイデアと言うべきか原理と言うべきか。
どちらにせよ、作品をある一つの仕方によって定められた原理……つまり観念にすることにある。
しかし、基本的には言語と格闘せざるをえなかった。
物質性の否定でありイメージを基とする芸術であるにもかかわらず、何かを顕在化するには物質と関わらなければならない。
その物質を極力おさえる為には、文字が良かった。
指示するもの、記号が。
だが「観念は言語的構造に先行して確立されることはない(ソシュール)」のである。
つまり観念的な作品を作ると言う事は、常に言語的であると言う事だ。
物質性を否定するかわりに、今度は無批判に言語を受け入れなければならない。
純粋な概念等ありえない。
コンセプチュアルと言う場合、それは常に言語的であるということを考えなければならない。
ソル・ルウィットの言う“アイデアが芸術の作り手”とは何なのだろう?
思うに、まず、これは作品を原理になるまで削り落す事だ。
それがイデアと言うべきか原理と言うべきか。
どちらにせよ、作品をある一つの仕方によって定められた原理……つまり観念にすることにある。
しかし、基本的には言語と格闘せざるをえなかった。
物質性の否定でありイメージを基とする芸術であるにもかかわらず、何かを顕在化するには物質と関わらなければならない。
その物質を極力おさえる為には、文字が良かった。
指示するもの、記号が。
だが「観念は言語的構造に先行して確立されることはない(ソシュール)」のである。
つまり観念的な作品を作ると言う事は、常に言語的であると言う事だ。
物質性を否定するかわりに、今度は無批判に言語を受け入れなければならない。
純粋な概念等ありえない。
コンセプチュアルと言う場合、それは常に言語的であるということを考えなければならない。
作品の金銭的な価値基準には色々ある。
物質的価値。
例えば、金細工は如何に無様であろうと金そのものの価値が見い出される。
美術的にどうこうという前に、素材が金銭的価値を出す場合。
これは絵画や立体に置いては“実費”といった事になろう。
が、往々にして売り手もしくは作者が実費以上を要求する場合でも、買い手がそれだけの価値を見い出さなかったら実費以下の価値になる。
専ら価値判断を“物体”においていないからだ。
しかし、貴金属をあえて大量に使う作品もある。
その場合は、「貴金属=高価」という前提を利用している為に、作品の価値そのものに物質の値段が関わる。
一方で『小さな紙に描いたドローイング』と『大作油画』の値段も違う。
一つは保存性の問題。
もう一つは、号数や作業時間が実費として考慮されているからだろう。
芸術的価値に対して金銭的価値は釣合うわけではない。
何故なら、作品が物だからだ。
商品は「芸術的な体験そのもの」ではなく、あくまで物体である。
この物体の価値は実際にはどうなっているのか?
骨董的価値。
骨董品が取り引きされる場合、その真贋と時代と希少性、保存状態などが値段に関わる。
芸術作品と呼ばれているものにも、往々にしてこの事は当てはまる。
その作者は誰か?いつ頃のものか?本当にそうか?
などというものが、その作品の作品性と関わるだろうか?
ローマ時代のギリシャ彫刻を摸刻した像を見た時に、その作者や時代を知らなくても「良い」と思える事は当り前の様にある。
とはいえ、人間は“視覚”によって情報を取り入れ、脳内で“知覚”となるのであれば、その歴史的証言力に十分な意味があるとも思える。
作品にせよ物体にせよ、表面に表われる記号は多い。
それは作品の形体や内容に留まらず、古さや時代性といったものも情報として発している。
我々が物を把握する際には、過去の記憶を参照する。
そして、作品が発している形体や内容にまとわりついている古さや時代性なんかも、自然に記憶との照合を行なって理解している。
すなわち、古い作品の芸術的価値を「古い事」によって人が見い出しても、それは嘘ではない。
その作品には既に古いと言う情報は不可分に関係しているからである。
古い作品と言うのは古い事によって「芸術的価値」を得ている。
『作品そのもの』と『それにまつわる諸々の要素』は不可分だし、全てを含めて作品はそこにあるはずだ。
しかし、そういう場合の「古さ」なんかは骨董的価値というよりも作品的価値という事になるはずだ。
が、それが金銭的な問題になると、『作品そのもの』より『諸々の要素』の方が先行する事がある。
つまり骨董的な価値として、作品の作品性から離れて、『諸々の要素』から作品を規定する場合だ。
その時には作品の資質に関わらず値段が設定され、価値が設定される。
希少性の問題もある。
希少である事は、前述の通り『作品そのもの』ではなく、『それにまつわる諸々の要素』として不可分のものだ。
ベンヤミンの言うところ、「アウラ」と言ったものがそれにあたるだろうか。
ということは、複製芸術にまで話を広げなければならない。
実際、映像作品や版画等では、摺数を規定し、通し番号を振り、原版を廃棄する事もある。
「いま」「ここで」の一回性を確保し、価値を生み出す必要があったからだ。
複製できるものを複製できない様にしてアウラを保持する。
……ところで、このアウラであるが、「いつでも」「どこでも」その作品を体験できるものには無いと言う。「いま」「ここで」しか体験できない作品にアウラはまつわる。
さて、しかし、個別的に考えれば、どのような作品にも「いま」「ここで」しか接しえないのではないか?
確かに映像作品であればDVD一枚持って自宅でもホールでも体験できる。
音楽に至っては、ポータブルプレーヤーによってそれこそどんな時でも体験できる。
しかし、実際には、体験しているのは個々の時と場所でではないか?
*途中
複製芸術には、その反復性と大量生産性が『諸々の要素』としてまつわっている。
絵画は老いる、或いは死ぬ。→デュシャン
一つの作品の中で反復を完結させるのではなく、つねに反復を可能にさせる複製芸術の工業性→ミニマリズムとして
物質的価値。
例えば、金細工は如何に無様であろうと金そのものの価値が見い出される。
美術的にどうこうという前に、素材が金銭的価値を出す場合。
これは絵画や立体に置いては“実費”といった事になろう。
が、往々にして売り手もしくは作者が実費以上を要求する場合でも、買い手がそれだけの価値を見い出さなかったら実費以下の価値になる。
専ら価値判断を“物体”においていないからだ。
しかし、貴金属をあえて大量に使う作品もある。
その場合は、「貴金属=高価」という前提を利用している為に、作品の価値そのものに物質の値段が関わる。
一方で『小さな紙に描いたドローイング』と『大作油画』の値段も違う。
一つは保存性の問題。
もう一つは、号数や作業時間が実費として考慮されているからだろう。
芸術的価値に対して金銭的価値は釣合うわけではない。
何故なら、作品が物だからだ。
商品は「芸術的な体験そのもの」ではなく、あくまで物体である。
この物体の価値は実際にはどうなっているのか?
骨董的価値。
骨董品が取り引きされる場合、その真贋と時代と希少性、保存状態などが値段に関わる。
芸術作品と呼ばれているものにも、往々にしてこの事は当てはまる。
その作者は誰か?いつ頃のものか?本当にそうか?
などというものが、その作品の作品性と関わるだろうか?
ローマ時代のギリシャ彫刻を摸刻した像を見た時に、その作者や時代を知らなくても「良い」と思える事は当り前の様にある。
とはいえ、人間は“視覚”によって情報を取り入れ、脳内で“知覚”となるのであれば、その歴史的証言力に十分な意味があるとも思える。
作品にせよ物体にせよ、表面に表われる記号は多い。
それは作品の形体や内容に留まらず、古さや時代性といったものも情報として発している。
我々が物を把握する際には、過去の記憶を参照する。
そして、作品が発している形体や内容にまとわりついている古さや時代性なんかも、自然に記憶との照合を行なって理解している。
すなわち、古い作品の芸術的価値を「古い事」によって人が見い出しても、それは嘘ではない。
その作品には既に古いと言う情報は不可分に関係しているからである。
古い作品と言うのは古い事によって「芸術的価値」を得ている。
『作品そのもの』と『それにまつわる諸々の要素』は不可分だし、全てを含めて作品はそこにあるはずだ。
しかし、そういう場合の「古さ」なんかは骨董的価値というよりも作品的価値という事になるはずだ。
が、それが金銭的な問題になると、『作品そのもの』より『諸々の要素』の方が先行する事がある。
つまり骨董的な価値として、作品の作品性から離れて、『諸々の要素』から作品を規定する場合だ。
その時には作品の資質に関わらず値段が設定され、価値が設定される。
希少性の問題もある。
希少である事は、前述の通り『作品そのもの』ではなく、『それにまつわる諸々の要素』として不可分のものだ。
ベンヤミンの言うところ、「アウラ」と言ったものがそれにあたるだろうか。
ということは、複製芸術にまで話を広げなければならない。
実際、映像作品や版画等では、摺数を規定し、通し番号を振り、原版を廃棄する事もある。
「いま」「ここで」の一回性を確保し、価値を生み出す必要があったからだ。
複製できるものを複製できない様にしてアウラを保持する。
……ところで、このアウラであるが、「いつでも」「どこでも」その作品を体験できるものには無いと言う。「いま」「ここで」しか体験できない作品にアウラはまつわる。
さて、しかし、個別的に考えれば、どのような作品にも「いま」「ここで」しか接しえないのではないか?
確かに映像作品であればDVD一枚持って自宅でもホールでも体験できる。
音楽に至っては、ポータブルプレーヤーによってそれこそどんな時でも体験できる。
しかし、実際には、体験しているのは個々の時と場所でではないか?
*途中
複製芸術には、その反復性と大量生産性が『諸々の要素』としてまつわっている。
絵画は老いる、或いは死ぬ。→デュシャン
一つの作品の中で反復を完結させるのではなく、つねに反復を可能にさせる複製芸術の工業性→ミニマリズムとして
いつも疑問を投げかけるところから始めたいと思っている。
だから、疑問を考えよう。
芸術家は誰に対して何を売っているのだろうか?
客の需要は何なのだろうか?また、芸術家にとって客はいるのだろうか?
二つの質問は、相互に関係していると思われる。
『客』ということに関して。
社会の中で……それが資本主義であれ共産主義であれ、恐らく共和制だろうと絶対王政だろうと封建的だろうと世界市民的だろうと……社会的人間に求められているのは、その社会の中におさまる事だ。
常識や言語についてはわかったが、じゃあ仕事についてはどうだろう。
社会と言う機能が生産の効率化を考えられているのならば、非生産的な社会人は非社会的と言う事になる。
どうだろう、確かにそう言うような気がする。
生産というものは、常に消費と言う事を考えなければならない。
供給に対しては需要がなければならない。
さて、そうすると芸術家が職業なのだとすれば、そこに需要や消費がなければならない。
需要はある。
これはウソではない。
芸術作品を見たいと思う人間は確かにいる。
ここで、しかし、リズールとレクトゥールと言う言葉を引っぱってきたい気がする。
レクトゥールと言うのは「普通読者」と訳され「小説と言えば何でも手当りしだいに読み、『趣味』という言葉の中に包含される内的、外的な如何なる要素によっても導かれてもいない人」。
リズールは「その人の為に作品世界が存在するその人」「(その作品が)本質的な目的として存在する」ような者。
これはチボーデが小説の読者を分類して言った言葉だ。
だが、どのような仕方の芸術にせよ実人生において本質的に目的であるような、つまりリズールな“客”はいる。
少ないだけだ、いや、四十何億の人間の中の0.1%に満たないだけかもしれない。
客は何か“芸術”というものを求める事があるのは確かだ。
ここでもう一つ、客ではなく芸術家について考えなければならない。
ワーズワスを始め、現代でも時折いるのだが、「感情の湧出」を……溢れ出るような感情を作品として固定する事を芸術的営為と思っている事がある。
これは本当にそうなのだろうか?
詩にしても絵画や立体にしても、音楽にしても、この発想は根強い。
「霊感」や「ダイモーン」という言葉に置き換えて使われる事もある。
ドラッグによるトリップ体験とも結びついて表われる言葉でもある。
本当に?
私はこれを全部退けはしない。
感情の横溢は確かに人に何かを伝える事はできる。
ただ、動物の威嚇や求愛行動と似ている。
動物は感情に合わせて歯を向いたり吼えたり、身体を大きく見せたりする。
尻を赤くしたり頬袋膨らませたりする。
だが、それを芸術と言う言葉と同義として良いのだろうか?
動物の表現行動は、何かを伝えている。
自分がどういう精神状態であるかを精一杯伝えているし、大体伝わっている。
芸術は何かを伝えなければならないが、感情はモティーフの一つであり、感情そのものが伝わればどういう仕方であっても良いと言うものではない。
少なくとも「感情が伝わった」という体験と「芸術を感じた」という体験は、同時に起こる事があっても別の体験である。
芸術は常にある種の『感動(何度と無く言うが、涙を誘うような感動ではなく、曰く言い難い精神的な動揺のこと)』とともにある。
だがしかし、芸術家は往々にして個人的な感情や感動を表現したい欲求にかられる。
更には個人的な……オリジナリティや即自存在といった“本質的で自分と言う存在そのものにまつわる自分自身”というようなものを表現に取り込む。
例えば、自己表現という言葉は簡単に見つけられるし、良く問題にされる。
芸術家は「私は何を表現したいのか?」という問題に頭を悩ませてしまう。
ここまで言えば、私が芸術家と客に対して持っている疑問に気付かれたと思う。
「客が何を求めているか」に対して「私は何を表現したいのか」という問題があるわけだ。
面白い事に「客に迎合するか否か」というような疑問は今日に始まったものではない。
そもそもこの質問は、私達が今見てきた文脈の中では浮き立つはずだ。
つまり「客=需要 作家=供給」という関係が成り立って始めて商売が成り立つ以上、客に対して迎合しない者は、それは商売と言う土俵の上に上がっていない事になる。
初めから商売を前提としていないのに「大衆」や「客」と言った概念を漠然と考えながら、同時に自己表現と言う価値観をも前提とするのは、ちょっと無理なのだろう。
「私は何を表現したいか?」は商売の公式には当てはまらない。
「客が何を求めているか?」は商売としてまず(成功するかは別として)成り立つ。
成り立たないにも関わらず「私は何を表現したいか?」で商売をしようというのは、一体なんなのだろう?
芸術家は自己のしたい表現をすることによって金銭を稼ぎたいのだ。
が、それは商売の基本的システムからは外れているはずだ。
でも芸術作品とやらで日々の生活の為に金銭を稼いでいる人間はいるではないか?
だから、疑問を考えよう。
芸術家は誰に対して何を売っているのだろうか?
客の需要は何なのだろうか?また、芸術家にとって客はいるのだろうか?
二つの質問は、相互に関係していると思われる。
『客』ということに関して。
社会の中で……それが資本主義であれ共産主義であれ、恐らく共和制だろうと絶対王政だろうと封建的だろうと世界市民的だろうと……社会的人間に求められているのは、その社会の中におさまる事だ。
常識や言語についてはわかったが、じゃあ仕事についてはどうだろう。
社会と言う機能が生産の効率化を考えられているのならば、非生産的な社会人は非社会的と言う事になる。
どうだろう、確かにそう言うような気がする。
生産というものは、常に消費と言う事を考えなければならない。
供給に対しては需要がなければならない。
さて、そうすると芸術家が職業なのだとすれば、そこに需要や消費がなければならない。
需要はある。
これはウソではない。
芸術作品を見たいと思う人間は確かにいる。
ここで、しかし、リズールとレクトゥールと言う言葉を引っぱってきたい気がする。
レクトゥールと言うのは「普通読者」と訳され「小説と言えば何でも手当りしだいに読み、『趣味』という言葉の中に包含される内的、外的な如何なる要素によっても導かれてもいない人」。
リズールは「その人の為に作品世界が存在するその人」「(その作品が)本質的な目的として存在する」ような者。
これはチボーデが小説の読者を分類して言った言葉だ。
だが、どのような仕方の芸術にせよ実人生において本質的に目的であるような、つまりリズールな“客”はいる。
少ないだけだ、いや、四十何億の人間の中の0.1%に満たないだけかもしれない。
客は何か“芸術”というものを求める事があるのは確かだ。
ここでもう一つ、客ではなく芸術家について考えなければならない。
ワーズワスを始め、現代でも時折いるのだが、「感情の湧出」を……溢れ出るような感情を作品として固定する事を芸術的営為と思っている事がある。
これは本当にそうなのだろうか?
詩にしても絵画や立体にしても、音楽にしても、この発想は根強い。
「霊感」や「ダイモーン」という言葉に置き換えて使われる事もある。
ドラッグによるトリップ体験とも結びついて表われる言葉でもある。
本当に?
私はこれを全部退けはしない。
感情の横溢は確かに人に何かを伝える事はできる。
ただ、動物の威嚇や求愛行動と似ている。
動物は感情に合わせて歯を向いたり吼えたり、身体を大きく見せたりする。
尻を赤くしたり頬袋膨らませたりする。
だが、それを芸術と言う言葉と同義として良いのだろうか?
動物の表現行動は、何かを伝えている。
自分がどういう精神状態であるかを精一杯伝えているし、大体伝わっている。
芸術は何かを伝えなければならないが、感情はモティーフの一つであり、感情そのものが伝わればどういう仕方であっても良いと言うものではない。
少なくとも「感情が伝わった」という体験と「芸術を感じた」という体験は、同時に起こる事があっても別の体験である。
芸術は常にある種の『感動(何度と無く言うが、涙を誘うような感動ではなく、曰く言い難い精神的な動揺のこと)』とともにある。
だがしかし、芸術家は往々にして個人的な感情や感動を表現したい欲求にかられる。
更には個人的な……オリジナリティや即自存在といった“本質的で自分と言う存在そのものにまつわる自分自身”というようなものを表現に取り込む。
例えば、自己表現という言葉は簡単に見つけられるし、良く問題にされる。
芸術家は「私は何を表現したいのか?」という問題に頭を悩ませてしまう。
ここまで言えば、私が芸術家と客に対して持っている疑問に気付かれたと思う。
「客が何を求めているか」に対して「私は何を表現したいのか」という問題があるわけだ。
面白い事に「客に迎合するか否か」というような疑問は今日に始まったものではない。
そもそもこの質問は、私達が今見てきた文脈の中では浮き立つはずだ。
つまり「客=需要 作家=供給」という関係が成り立って始めて商売が成り立つ以上、客に対して迎合しない者は、それは商売と言う土俵の上に上がっていない事になる。
初めから商売を前提としていないのに「大衆」や「客」と言った概念を漠然と考えながら、同時に自己表現と言う価値観をも前提とするのは、ちょっと無理なのだろう。
「私は何を表現したいか?」は商売の公式には当てはまらない。
「客が何を求めているか?」は商売としてまず(成功するかは別として)成り立つ。
成り立たないにも関わらず「私は何を表現したいか?」で商売をしようというのは、一体なんなのだろう?
芸術家は自己のしたい表現をすることによって金銭を稼ぎたいのだ。
が、それは商売の基本的システムからは外れているはずだ。
でも芸術作品とやらで日々の生活の為に金銭を稼いでいる人間はいるではないか?
社会の一員としての基準は、その社会の枠組みに入っているか否かだろうと思う。
ところで社会と言う漠然とした言葉を、実際化してみると国家がまずある。
自分が国家の一員であると言う為にはまず国籍が必要だ。
国籍さえ認められれば、法的には国家の一員と言えるだろう。
では法以外のところではどうだろう。
その集団と同一の言語と常識が必要なのは、当り前だ。
“常識”がその集団と同一というのは、社会的な規範が同じである事、行動基準や宗教感が同じである事、伝統的知識を共有できる事などによって、何かの判断を迫られた場合に、その集団にとって社会的または精神的にダメージを与えない場合の事だ。
国籍があり、言語が同じで、常識も同じだった場合、それはその社会集団の一員となっていると言える。
しかし、社会と言う機能は生活の為にある。
生活。
安定した生産とその維持を、またその効率化を計るというのは、社会の機能の最たるものだろう。
法整備は社会と言う有効なシステムの為に必要だった。
職業の分担、分業は社会の機能から生まれたのだろう。
狩りにせよ農業にせよ商業にせよ、或いは単なる労働力にせよ、それはそれぞれ職人とも言える。
ところで、一般的な言葉で言う「職人」は専ら物作りをする人間の事だ。
指物師や金物師、建築家、土師、陶芸家……そして画家や彫刻家。
職人が売っているものは技術である。
そしてその技術は社会の需要に基づいて売っている。
必要に応じて分業化され、それを専門に制作する者達が職人だった。
かつて過去に芸術家と見なされた人達は、確かにいた。
だが、それはなんだったのか?
……それは職業だったのか?
いや、むしろ称号だった。
本来的に依頼に対して制作を行なう者=職人しかそこに存在しなかった。
その職人のうち、傑出して感動的な作品を作る者が芸術家と呼ばれた。
リュシッポスは芸術家だったが彫刻家だった、言い換えれば彫刻職人がその作品の出来によって芸術家と呼ばれたわけだった。
彼等は基本的には技術によって感動を売るのだった。
一方で、詩人はエンターティナー、娯楽を売る人々でもあった。
今日的な仕方で理解するのだったら、彼等の方が芸術家という言葉が当てはまりやすかった。
というのは、彼等が売る技術は“感情を模倣する事”に因っていたからだった。
彼等はより直接的に感動を云々しなければならなかった。
客の需要が「如何に感情を刺激してくれるか」だったから。
彫刻の技術は修練によって現実の対象に迫る事ができるが、詩人の技術は確かに漠然として捕らえ所がない。
彼等の中に芸術家はいたが、前提として詩人である事は否めかった。
こうつらつら考えると芸術家と言う職業は本当にあるのだろうか?
我々は今更ARTという英語を思い巡らせる。
それは<技術>と<芸術>が同じ意味であるとか、芸術家は職人であるとかいう以前に第一義として技術であり職人であることを意味している。
優れた技術、優れた職人が、THE ARTなのであった。
少なくともかつての世界には「芸術家」という職業はなかった。
今はあるのだろうか?
ところで社会と言う漠然とした言葉を、実際化してみると国家がまずある。
自分が国家の一員であると言う為にはまず国籍が必要だ。
国籍さえ認められれば、法的には国家の一員と言えるだろう。
では法以外のところではどうだろう。
その集団と同一の言語と常識が必要なのは、当り前だ。
“常識”がその集団と同一というのは、社会的な規範が同じである事、行動基準や宗教感が同じである事、伝統的知識を共有できる事などによって、何かの判断を迫られた場合に、その集団にとって社会的または精神的にダメージを与えない場合の事だ。
国籍があり、言語が同じで、常識も同じだった場合、それはその社会集団の一員となっていると言える。
しかし、社会と言う機能は生活の為にある。
生活。
安定した生産とその維持を、またその効率化を計るというのは、社会の機能の最たるものだろう。
法整備は社会と言う有効なシステムの為に必要だった。
職業の分担、分業は社会の機能から生まれたのだろう。
狩りにせよ農業にせよ商業にせよ、或いは単なる労働力にせよ、それはそれぞれ職人とも言える。
ところで、一般的な言葉で言う「職人」は専ら物作りをする人間の事だ。
指物師や金物師、建築家、土師、陶芸家……そして画家や彫刻家。
職人が売っているものは技術である。
そしてその技術は社会の需要に基づいて売っている。
必要に応じて分業化され、それを専門に制作する者達が職人だった。
かつて過去に芸術家と見なされた人達は、確かにいた。
だが、それはなんだったのか?
……それは職業だったのか?
いや、むしろ称号だった。
本来的に依頼に対して制作を行なう者=職人しかそこに存在しなかった。
その職人のうち、傑出して感動的な作品を作る者が芸術家と呼ばれた。
リュシッポスは芸術家だったが彫刻家だった、言い換えれば彫刻職人がその作品の出来によって芸術家と呼ばれたわけだった。
彼等は基本的には技術によって感動を売るのだった。
一方で、詩人はエンターティナー、娯楽を売る人々でもあった。
今日的な仕方で理解するのだったら、彼等の方が芸術家という言葉が当てはまりやすかった。
というのは、彼等が売る技術は“感情を模倣する事”に因っていたからだった。
彼等はより直接的に感動を云々しなければならなかった。
客の需要が「如何に感情を刺激してくれるか」だったから。
彫刻の技術は修練によって現実の対象に迫る事ができるが、詩人の技術は確かに漠然として捕らえ所がない。
彼等の中に芸術家はいたが、前提として詩人である事は否めかった。
こうつらつら考えると芸術家と言う職業は本当にあるのだろうか?
我々は今更ARTという英語を思い巡らせる。
それは<技術>と<芸術>が同じ意味であるとか、芸術家は職人であるとかいう以前に第一義として技術であり職人であることを意味している。
優れた技術、優れた職人が、THE ARTなのであった。
少なくともかつての世界には「芸術家」という職業はなかった。
今はあるのだろうか?
模倣という言葉が出ると、私達は身構えます。
というのもプラトン、アリストテレス以来「模倣」は芸術にとってのキータームになっているからです。
模倣、ミメーシス。
プラトンにとっては、芸術に類するものは模倣であるために無価値、むしろ有害とさえ考えました。
(これは教育にも関係する事ですが、それは別項を上げるつもりです。)
芸術とは模倣の技術である。
イデアの復写的産物である現実界を更に模しているということは、人をイデアより遠退かせることにほかならない。
上に芸術は理性ではなく、ただ快楽にのみ訴え、人はそれに満足を覚えざるをえない故、芸術は本質から遠ざける堕落的な害悪である。
という考え方でありました。
一方でアリストテレスは、人はそもそも模倣を好む生物であると看破します。
それは人が学ぶ生き物だから、模倣されたものに対して思い考えものである。
赤子が模倣から始めるのはわかりきっている。
そして、芸術は人にカタルシスを与え、本来的な人間へと戻す、或いは引き上げる。
と、解釈されます。
これはまったく、我々にとっては大きな問題です。
一方で価値が認められ、一方で害悪とさえ思われています。
芸術は害悪と結びつきました。
人間性と社会性の二つの面で考えましょう。
プラトンは哲学者による完璧な国家を考える上で、まず詩人を初めとする芸術家を排斥します。
無闇矢鱈に人の感情を刺激するからです。
良し悪しの判断ではなく、ただ感情によって人を動かすという「社会的害悪」であります。
これはソフィスト、弁論家のそれと同じ理由での排斥です。
ただ表面的なことによって人の感情を揺さぶり、理性による正しい判断や本質に則した知見とは無縁のもの、むしろそれを邪魔するものと考えられました。
私達が目にしているものは、“洞窟の比喩”を用いれば、影に過ぎないと言う事になります。
イデア、つまり『そのもの』『本質』の影絵です。
その影絵をさらに模倣し、無闇に感情や快楽へ訴えるのだから、意味が有るとはとてもいえない。
(「芸術」は、専ら彫像や絵画や劇(詩)を指しています)
哲人国家を理想とするプラトンにとって、芸術は社会的に容認しえないものでしたし、人間そのものにとっても非理性的で問題を孕んだものでした。
アリストテレスにとっての模倣(「再現」という言葉が使われます)は人間に備わった自然な傾向でありました。
人間は前提として再現されたものを喜びます。
例えば、悲劇的な戦争の場面であっても死体があらわれる場面であっても、現実の様に目を背けるよりはむしろ楽しむ(無論、喜々というのでなく感情を揺さぶられるという意味での)ことができる。
嘔吐するような悲惨な場面であっても再現されたものなら人は見る事ができ、満足さえ得るものです。
これは大いに示唆的です。
「人間は現実よりも再現を好む」というのは、基本的に作家に常に纏わりつく問題です。
話を戻します。
それで人間にとっての自然な欲求である再現への快楽は、ただそれだけではなく、カタルシスを呼び起こすものとされています。
この『カタルシス』はどう解釈するか、いまだに決着をみない言葉であります。
一般的には「浄化」だと見られていますが、色々な意見が有ります。
が、どうあれ、これを否定的な意味で捉える解釈は有りません。
何らかの肯定的な作用として「カタルシス」は捕らえられています。
人にはよりますが、人間の本来性を取り戻すと言う意味で考えられる事が多いようです。
しかしアリストテレスが社会性を考える場合に必ずしも堕落や快楽に対して無防備だったわけでは有りません。
娯楽としての芸術に対して無関心だったわけではない(当時、彫像は神殿など、劇はディオニソス祭などで行なわれて、今日の様に常時手軽に手に入ったわけでないことは考慮すべき)。
とはいえ、人間の本来性とその機能を考えたら必然的で重要なものが芸術でした。
さて、芸術にとってこれらのことは、『価値』の問題に則すると重要のポイントになります。
プラトンはイデアを前提にして人間的にも社会的にも「本質」から遠ざけ無用な煽動をするとして否定しました。
アリストテレスは専ら人間の本質として芸術を擁護しました。
どちらが正しいか?
私のような浅学の身には重過ぎる質問です。
しかし、改めて質問し直す事はできます。
人間にとって芸術はどうであるか?
社会にとって芸術はどうであるか?
社会を作るのは人間ですが、人間個人以上に社会にとっては統一的システムが必要とされています。
社会の構造の中に無秩序性があらざるをえないとしても、統治という観点から見ればまず秩序ありきです。
すなわち、統治する上では芸術による無闇な混乱は避けたい。
芸術は混乱か?
そう、感情と理性は、混沌と秩序の二分割に対応していました。
パトスとエトス、カオスとロゴスは、時に善悪にさえなりました。
混沌、不均衡は悪、理性、秩序は善という……これはしかし、幾何学的数学的神秘主義でもあります。数秘術や魔法陣、魔法円、カバリズムにせよ、一定の数学的秩序を持ち合わせているからこそ善であり神秘である本質的動因に働きかけているという発想につながりました……。
芸術は感情の側に有り、感情は混沌と類似、すなわち悪と考える事できます。
だから、秩序を中心とすべき『社会にとって芸術は対立する』ものである。
これはしかし、今日的発想とは言い難いでしょう。
が、そのことは追って述べます。
人間的な面に則して言えば、アリストテレスはミメーシスの哲学的側面と感情の初期化、浄化を認めていました。
感情は人間の本来備わっている物として、悪とはしていない。
理性を重んじるにしても、感情即悪ではなく、むしろ『人間にとって芸術は不可避』であるとさえかんがえられます。
プラトンは、ただ無闇な感情の上下であると感じていたようです。
二者とも意見は違いますが、しかし、少なくともこれだけは言っています。
すなわち、芸術が某かの感動を人に与えている、と。
それが感情のみであるために理性にとって有害か、人間の本来性である為に哲学的であるかは相違がありますが、人間が感動を得ている事を否定しません。
我々はここでようやく問題に着手する事が出来ます。
問題は感動なのです。
模倣。
近代の表現主義に至っても、未だに模倣です。
と言うのは、感情や雰囲気を再現しているからです。
シュルレアリスムも心理学的模倣ということになります。
パフォーマンスにしても、観客に作者の体験や思想を追体験させると言う部分があるうえでは模倣の領域を出ません。
芸術においては、模倣の問題は大変重要なことではあります。
何故なら、私達は模倣に対して感動を得ているからです。
リアルな表現と言うのは、ある種の感動を誘います。
が、それが単にリアリティだけで終った場合に感動を誘わないのは良く知られています。
例えば「日常」というテーマは現代で良く使われますが、日常を克明に淡々と切り取った場合、それは芸術と言うよりも退屈な再現に他なりません。
我々が模倣するのは何でしょうか?
それは優れている事物。
より感情をうごかす事物。
ある情景や場面や心情や、人、物、状況、思考過程、それらの特殊な事物であります。
つまり、その『ある種の感動体験の媒体』を再現することによって、人に感動を与えようとしているわけです。
それらは単なる再現ではありえません。
十分に何かを抽出させた再現です。
……しかしながら、一方で、単純無類の完璧な再現は感動を誘います。
完全な『単なる再現』です。
日常を克明に淡々と切り取ったとしても、それが細部に至るまで完全に再現されていると知ると我々は感動を覚えます。
極つまらない形をした人物像であろうとも、それが真に人間かのようであったらある種の感動を覚えます。
つまり、前者は感動体験そのものを作者が模倣し感動を与える場合。後者は再現という技術そのもので感動を与える場合。
と、なります。
というのもプラトン、アリストテレス以来「模倣」は芸術にとってのキータームになっているからです。
模倣、ミメーシス。
プラトンにとっては、芸術に類するものは模倣であるために無価値、むしろ有害とさえ考えました。
(これは教育にも関係する事ですが、それは別項を上げるつもりです。)
芸術とは模倣の技術である。
イデアの復写的産物である現実界を更に模しているということは、人をイデアより遠退かせることにほかならない。
上に芸術は理性ではなく、ただ快楽にのみ訴え、人はそれに満足を覚えざるをえない故、芸術は本質から遠ざける堕落的な害悪である。
という考え方でありました。
一方でアリストテレスは、人はそもそも模倣を好む生物であると看破します。
それは人が学ぶ生き物だから、模倣されたものに対して思い考えものである。
赤子が模倣から始めるのはわかりきっている。
そして、芸術は人にカタルシスを与え、本来的な人間へと戻す、或いは引き上げる。
と、解釈されます。
これはまったく、我々にとっては大きな問題です。
一方で価値が認められ、一方で害悪とさえ思われています。
芸術は害悪と結びつきました。
人間性と社会性の二つの面で考えましょう。
プラトンは哲学者による完璧な国家を考える上で、まず詩人を初めとする芸術家を排斥します。
無闇矢鱈に人の感情を刺激するからです。
良し悪しの判断ではなく、ただ感情によって人を動かすという「社会的害悪」であります。
これはソフィスト、弁論家のそれと同じ理由での排斥です。
ただ表面的なことによって人の感情を揺さぶり、理性による正しい判断や本質に則した知見とは無縁のもの、むしろそれを邪魔するものと考えられました。
私達が目にしているものは、“洞窟の比喩”を用いれば、影に過ぎないと言う事になります。
イデア、つまり『そのもの』『本質』の影絵です。
その影絵をさらに模倣し、無闇に感情や快楽へ訴えるのだから、意味が有るとはとてもいえない。
(「芸術」は、専ら彫像や絵画や劇(詩)を指しています)
哲人国家を理想とするプラトンにとって、芸術は社会的に容認しえないものでしたし、人間そのものにとっても非理性的で問題を孕んだものでした。
アリストテレスにとっての模倣(「再現」という言葉が使われます)は人間に備わった自然な傾向でありました。
人間は前提として再現されたものを喜びます。
例えば、悲劇的な戦争の場面であっても死体があらわれる場面であっても、現実の様に目を背けるよりはむしろ楽しむ(無論、喜々というのでなく感情を揺さぶられるという意味での)ことができる。
嘔吐するような悲惨な場面であっても再現されたものなら人は見る事ができ、満足さえ得るものです。
これは大いに示唆的です。
「人間は現実よりも再現を好む」というのは、基本的に作家に常に纏わりつく問題です。
話を戻します。
それで人間にとっての自然な欲求である再現への快楽は、ただそれだけではなく、カタルシスを呼び起こすものとされています。
この『カタルシス』はどう解釈するか、いまだに決着をみない言葉であります。
一般的には「浄化」だと見られていますが、色々な意見が有ります。
が、どうあれ、これを否定的な意味で捉える解釈は有りません。
何らかの肯定的な作用として「カタルシス」は捕らえられています。
人にはよりますが、人間の本来性を取り戻すと言う意味で考えられる事が多いようです。
しかしアリストテレスが社会性を考える場合に必ずしも堕落や快楽に対して無防備だったわけでは有りません。
娯楽としての芸術に対して無関心だったわけではない(当時、彫像は神殿など、劇はディオニソス祭などで行なわれて、今日の様に常時手軽に手に入ったわけでないことは考慮すべき)。
とはいえ、人間の本来性とその機能を考えたら必然的で重要なものが芸術でした。
さて、芸術にとってこれらのことは、『価値』の問題に則すると重要のポイントになります。
プラトンはイデアを前提にして人間的にも社会的にも「本質」から遠ざけ無用な煽動をするとして否定しました。
アリストテレスは専ら人間の本質として芸術を擁護しました。
どちらが正しいか?
私のような浅学の身には重過ぎる質問です。
しかし、改めて質問し直す事はできます。
人間にとって芸術はどうであるか?
社会にとって芸術はどうであるか?
社会を作るのは人間ですが、人間個人以上に社会にとっては統一的システムが必要とされています。
社会の構造の中に無秩序性があらざるをえないとしても、統治という観点から見ればまず秩序ありきです。
すなわち、統治する上では芸術による無闇な混乱は避けたい。
芸術は混乱か?
そう、感情と理性は、混沌と秩序の二分割に対応していました。
パトスとエトス、カオスとロゴスは、時に善悪にさえなりました。
混沌、不均衡は悪、理性、秩序は善という……これはしかし、幾何学的数学的神秘主義でもあります。数秘術や魔法陣、魔法円、カバリズムにせよ、一定の数学的秩序を持ち合わせているからこそ善であり神秘である本質的動因に働きかけているという発想につながりました……。
芸術は感情の側に有り、感情は混沌と類似、すなわち悪と考える事できます。
だから、秩序を中心とすべき『社会にとって芸術は対立する』ものである。
これはしかし、今日的発想とは言い難いでしょう。
が、そのことは追って述べます。
人間的な面に則して言えば、アリストテレスはミメーシスの哲学的側面と感情の初期化、浄化を認めていました。
感情は人間の本来備わっている物として、悪とはしていない。
理性を重んじるにしても、感情即悪ではなく、むしろ『人間にとって芸術は不可避』であるとさえかんがえられます。
プラトンは、ただ無闇な感情の上下であると感じていたようです。
二者とも意見は違いますが、しかし、少なくともこれだけは言っています。
すなわち、芸術が某かの感動を人に与えている、と。
それが感情のみであるために理性にとって有害か、人間の本来性である為に哲学的であるかは相違がありますが、人間が感動を得ている事を否定しません。
我々はここでようやく問題に着手する事が出来ます。
問題は感動なのです。
模倣。
近代の表現主義に至っても、未だに模倣です。
と言うのは、感情や雰囲気を再現しているからです。
シュルレアリスムも心理学的模倣ということになります。
パフォーマンスにしても、観客に作者の体験や思想を追体験させると言う部分があるうえでは模倣の領域を出ません。
芸術においては、模倣の問題は大変重要なことではあります。
何故なら、私達は模倣に対して感動を得ているからです。
リアルな表現と言うのは、ある種の感動を誘います。
が、それが単にリアリティだけで終った場合に感動を誘わないのは良く知られています。
例えば「日常」というテーマは現代で良く使われますが、日常を克明に淡々と切り取った場合、それは芸術と言うよりも退屈な再現に他なりません。
我々が模倣するのは何でしょうか?
それは優れている事物。
より感情をうごかす事物。
ある情景や場面や心情や、人、物、状況、思考過程、それらの特殊な事物であります。
つまり、その『ある種の感動体験の媒体』を再現することによって、人に感動を与えようとしているわけです。
それらは単なる再現ではありえません。
十分に何かを抽出させた再現です。
……しかしながら、一方で、単純無類の完璧な再現は感動を誘います。
完全な『単なる再現』です。
日常を克明に淡々と切り取ったとしても、それが細部に至るまで完全に再現されていると知ると我々は感動を覚えます。
極つまらない形をした人物像であろうとも、それが真に人間かのようであったらある種の感動を覚えます。
つまり、前者は感動体験そのものを作者が模倣し感動を与える場合。後者は再現という技術そのもので感動を与える場合。
と、なります。
芸術が新しい宗教のような価値を得るか、娯楽の敷衍か、社会的に必要な機能か、様々な立場の人々が様々に語っています。
ところで、大別すると芸術を無価値とする(或いは害悪とさえ言う)者と有価値とする者にわける事ができるようです。
これはどういったわけでしょうか。
まずもって、無価値とする立場を考えると……それはひとえに社会的有意性の無さに起因しています。
つまり衣食住を中心とし、単純に生命と健康の維持、子孫繁栄、秩序の形成、といったものとは無縁である、という理由によるものです。
一方で有価値とする場合、それを心理学的に意味があり、社会的にも人間の生活を安寧にさせすごし安くし、なによりも“人間的”な営為だとしているようです。
確かに動物は絵画や彫刻や音楽を積極的に作りませんし、拝観拝聴とは縁が無い。
「しかし、動物には着飾るものもいるのでは?」と言う方もおりましょう。
古来有名なところでは孔雀がありますが、昨今知れ渡った印象深いものにアオアズマヤドリがいます。
なるほど、これは変わった鳥です。
青い色の物を探してきては巣を飾り、中々壮観の家を建てる鳥です。
青色を大量に集めるのは並々ならぬ労苦であろうとは思うのですが、その艱難辛苦をものともしない雄鳥も甚だ情熱的なようで。
他にも着飾り、踊り、歌う動物を知っている人は少なくないでしょう。
さて、こういった動物が一見、芸術に接近している様に見えるのではないか?
だが、この動物達は恒久的に芸術に奉仕しているわけではないのです。
専らそれは女性に対して自分の魅力をアピールする手段でしかないわけですから、同性の作った作品なんぞ眼にも入らぬ、邪魔なだけ、というわけです。
我々が何かの作品を作る場合に……これはもっと厳密に言うと、何か“芸術”という漠然とした概念を念頭に置いて作る場合に……決して女性に対してアピールを繰り返していると言うわけではないのです。
それは「女性に対する手段」ではありません。
「では何に対する何か?」という問いに言下には答えられませんが、少なくとも女性に対するセックスアピールでない事だけは確かなようです。
その仕事はファッションや会話の話題やヒーロー性に任されているようです。
私は、繰り返し「女性に対して」と言っています。
これは、動物界では『オス → メス』のアピールはあっても『メス → オス』の構造は無いからです。
アピールするのは常にオスです。
しかし、人間の場合は女性も芸術を良くします。
更に言えば、人間は誰の作品かどうかを確認せずとも作品を楽しむことが出来ますし、故人であれ工房であれ、それほど問題になりません。
『要は作品の良し悪し』
というのは、芸術に関して極当り前の言葉ですが、動物的ではないです。
動物にとっては『誰が(どのオスが)』が重要になるのです。
男性が名も知らぬ作家達の展覧会で感心しきりに見入っている姿は動物にとっては、甚だ理解し難い光景かも知れません。
また、エクスキュルによれば、人間と動物ではそもそも視覚、聴覚、脳、そのほか感覚器官と処理器官がまったく違うそうです。
すなわち人間が見て感じている事を単純に動物に当てはめてもまったく錯誤でしか無いと言う事になります。
良く知られている例では、人間は色を見分けていますが、色を見分けられない生物もいます、また人間よりも多くの色を見ている生物もいますし、魚眼、複眼では像の見え方そのものに差が生じます。
受容器官に差が出ているのみならず、処理器官……つまり脳の構造が全然違う。
ということは、我々が獲て感じている事とはまったく違うわけです。
これでは比べるのも妙というわけです。
動物的な、つまりアピールとしての芸術じゃ無い事はわかりました。
(しかし、疑念の余地はあります。実際には芸術は全てアピールだが、その感情は無意識下にあり顕現していないとも考えられます……)
では芸術の価値はなんだ?
これは古来からの疑問であります。
有史以前も触る必要がありますが、まずはギリシア……芸術の一大転機と見なされるルネサンスがもっとも足しげく逍遥した古代ギリシア……を起点にしてみます。
既にローマ帝国の下に置かれていた一世紀にプリニウスという人がいます。
彼はこのような事を言っています。
その作品は都市を一つ買えるだけの価値があった。
と。
これは紀元前4、3世紀の作品のことを言っているのだと思われますが、今から2400年以上前には作品一つと都市が比べられる程だった、ということです。
勿論、これはプリニウス一流の比喩かもしませんが、少なくとも大層な価値があった事は確かです。
それに比べれば我々の時代の美術などたかが数億と言えるかも知れません。
古代ギリシアの作家達は、名誉があった。
作者も多く知られ、作品にサインがあり、パウサニアスなどの史家が名を記していたりします。
これはもう十分な価値が認められていたと言うしか無いでしょう。
リュシッポスがアレクサンドロス大王の肖像を作り、ペイディアデスがアテナ像を作り、その他始めてアプロディテの裸像を作ったのは誰、美しいクーロス像(青年像)を作ったのは誰、といった名誉も知られています。
往古、美術に対する態度は貪欲でさえありました。
美しい青年像(小顔ですらりと身体の長い)の様式を確立したとして誉められた者がいるかと思えば、迫真性に富んだ躍動感を与えた者、些か猥褻とも思える表現に挑んだ者、画家アンティメネスはこんな逸話を残す程であります……
ある画家に会いに行き、偶々留守だったので挨拶代わりに板に細い線を描いた。
帰ってきてそれを見つけた画家はアンティメネスだと思い、その線の上に更に細い線を描いた。
再び帰ってきたアンティメネスは、その上にそれ以上ない細い線を描いた。
またまた帰ってきてそれを見た画家はアンティメネスを迎えに駆けて、自分達の面白い技量合戦を披露しようと奉納したらしい。
それは、プリニウスに言わせれば、遠くから見ればただの白地の板に見えるが、それがかえって印象深く目立ったそうである。
こういった職人は、芸術家として誉めたたえられます。
それは市民からであり、国家からであり、君主からでありました。
これは社会的有意性を認められていたと言うことです。
ホメロスは段違いにせよ、サッフォーを初めとする詩人やソフォクレスなどと同じような意味での賞讃であったと思われます。
ところで、その作品なのですが、表現の仕方とリアリティに重点が置かれていたようですが、どうもそれだけではないようです。
確かに、迫真の彫刻は多く、それが基本です。
彫刻ということであれば、その肉体表現のリアリズムはほぼ完成に近付いておりました。
絵画はどうか?
これは今だ平面的で、空間の出し方と言えば、前後を重ねる事。
右を向いている人であれば、ほぼ確実に左足を前に出して空間感を出そうとしているし、名案の使い分けによる立体感もない。
描写もなされていない。
エジプトからの影響が顕著である。
などと色々とありますが、パースによる遠近法を試みた後は見つかっていますし、ポンペイの壁画を見れば、そのリアリティはほぼウッチェロの先触れとして紹介されても良いくらいの出来です。
我々が多く目にする古代ギリシアの絵画は、壺絵などがほとんどで絵画としての独立性に薄く、また地と黒色との二色と言う限定を含んでいるものです。
タブローとして独立しているとは言い難いものです。
エジプトには木材に白亜地の板絵があったらしいのですが、これといった板絵は存在していません。
中心は、あくまで装飾としての絵画でした。
壁画、壺絵、などです。
で、例えばクレタでの海洋生物様式……例えばタコの図像はミュケナイに入り抽象化され、完全に紋様的な装飾に変容する事さえありました。
現実の模倣よりも抽象的な図像の方が好まれた場合もあったのです。
無論、抽象芸術という概念はありませんでしたが、デザインとしての抽象化は行なわれていたと言う事です。
これはつまり、より好ましい絵画的形体に、現実とはまた別の二次元上の形体に変型させる事が近代の発見ではなく古代からあったと言う事であります。
人間の頭脳の作用として、それは過去にも持ち合わせていたようです。
しかし、それはただそれだけの意味ではなく、より美術的なものを選んだと言う意味でもあります。
単純な模倣ではない物にも価値があった。
ところで、大別すると芸術を無価値とする(或いは害悪とさえ言う)者と有価値とする者にわける事ができるようです。
これはどういったわけでしょうか。
まずもって、無価値とする立場を考えると……それはひとえに社会的有意性の無さに起因しています。
つまり衣食住を中心とし、単純に生命と健康の維持、子孫繁栄、秩序の形成、といったものとは無縁である、という理由によるものです。
一方で有価値とする場合、それを心理学的に意味があり、社会的にも人間の生活を安寧にさせすごし安くし、なによりも“人間的”な営為だとしているようです。
確かに動物は絵画や彫刻や音楽を積極的に作りませんし、拝観拝聴とは縁が無い。
「しかし、動物には着飾るものもいるのでは?」と言う方もおりましょう。
古来有名なところでは孔雀がありますが、昨今知れ渡った印象深いものにアオアズマヤドリがいます。
なるほど、これは変わった鳥です。
青い色の物を探してきては巣を飾り、中々壮観の家を建てる鳥です。
青色を大量に集めるのは並々ならぬ労苦であろうとは思うのですが、その艱難辛苦をものともしない雄鳥も甚だ情熱的なようで。
他にも着飾り、踊り、歌う動物を知っている人は少なくないでしょう。
さて、こういった動物が一見、芸術に接近している様に見えるのではないか?
だが、この動物達は恒久的に芸術に奉仕しているわけではないのです。
専らそれは女性に対して自分の魅力をアピールする手段でしかないわけですから、同性の作った作品なんぞ眼にも入らぬ、邪魔なだけ、というわけです。
我々が何かの作品を作る場合に……これはもっと厳密に言うと、何か“芸術”という漠然とした概念を念頭に置いて作る場合に……決して女性に対してアピールを繰り返していると言うわけではないのです。
それは「女性に対する手段」ではありません。
「では何に対する何か?」という問いに言下には答えられませんが、少なくとも女性に対するセックスアピールでない事だけは確かなようです。
その仕事はファッションや会話の話題やヒーロー性に任されているようです。
私は、繰り返し「女性に対して」と言っています。
これは、動物界では『オス → メス』のアピールはあっても『メス → オス』の構造は無いからです。
アピールするのは常にオスです。
しかし、人間の場合は女性も芸術を良くします。
更に言えば、人間は誰の作品かどうかを確認せずとも作品を楽しむことが出来ますし、故人であれ工房であれ、それほど問題になりません。
『要は作品の良し悪し』
というのは、芸術に関して極当り前の言葉ですが、動物的ではないです。
動物にとっては『誰が(どのオスが)』が重要になるのです。
男性が名も知らぬ作家達の展覧会で感心しきりに見入っている姿は動物にとっては、甚だ理解し難い光景かも知れません。
また、エクスキュルによれば、人間と動物ではそもそも視覚、聴覚、脳、そのほか感覚器官と処理器官がまったく違うそうです。
すなわち人間が見て感じている事を単純に動物に当てはめてもまったく錯誤でしか無いと言う事になります。
良く知られている例では、人間は色を見分けていますが、色を見分けられない生物もいます、また人間よりも多くの色を見ている生物もいますし、魚眼、複眼では像の見え方そのものに差が生じます。
受容器官に差が出ているのみならず、処理器官……つまり脳の構造が全然違う。
ということは、我々が獲て感じている事とはまったく違うわけです。
これでは比べるのも妙というわけです。
動物的な、つまりアピールとしての芸術じゃ無い事はわかりました。
(しかし、疑念の余地はあります。実際には芸術は全てアピールだが、その感情は無意識下にあり顕現していないとも考えられます……)
では芸術の価値はなんだ?
これは古来からの疑問であります。
有史以前も触る必要がありますが、まずはギリシア……芸術の一大転機と見なされるルネサンスがもっとも足しげく逍遥した古代ギリシア……を起点にしてみます。
既にローマ帝国の下に置かれていた一世紀にプリニウスという人がいます。
彼はこのような事を言っています。
その作品は都市を一つ買えるだけの価値があった。
と。
これは紀元前4、3世紀の作品のことを言っているのだと思われますが、今から2400年以上前には作品一つと都市が比べられる程だった、ということです。
勿論、これはプリニウス一流の比喩かもしませんが、少なくとも大層な価値があった事は確かです。
それに比べれば我々の時代の美術などたかが数億と言えるかも知れません。
古代ギリシアの作家達は、名誉があった。
作者も多く知られ、作品にサインがあり、パウサニアスなどの史家が名を記していたりします。
これはもう十分な価値が認められていたと言うしか無いでしょう。
リュシッポスがアレクサンドロス大王の肖像を作り、ペイディアデスがアテナ像を作り、その他始めてアプロディテの裸像を作ったのは誰、美しいクーロス像(青年像)を作ったのは誰、といった名誉も知られています。
往古、美術に対する態度は貪欲でさえありました。
美しい青年像(小顔ですらりと身体の長い)の様式を確立したとして誉められた者がいるかと思えば、迫真性に富んだ躍動感を与えた者、些か猥褻とも思える表現に挑んだ者、画家アンティメネスはこんな逸話を残す程であります……
ある画家に会いに行き、偶々留守だったので挨拶代わりに板に細い線を描いた。
帰ってきてそれを見つけた画家はアンティメネスだと思い、その線の上に更に細い線を描いた。
再び帰ってきたアンティメネスは、その上にそれ以上ない細い線を描いた。
またまた帰ってきてそれを見た画家はアンティメネスを迎えに駆けて、自分達の面白い技量合戦を披露しようと奉納したらしい。
それは、プリニウスに言わせれば、遠くから見ればただの白地の板に見えるが、それがかえって印象深く目立ったそうである。
こういった職人は、芸術家として誉めたたえられます。
それは市民からであり、国家からであり、君主からでありました。
これは社会的有意性を認められていたと言うことです。
ホメロスは段違いにせよ、サッフォーを初めとする詩人やソフォクレスなどと同じような意味での賞讃であったと思われます。
ところで、その作品なのですが、表現の仕方とリアリティに重点が置かれていたようですが、どうもそれだけではないようです。
確かに、迫真の彫刻は多く、それが基本です。
彫刻ということであれば、その肉体表現のリアリズムはほぼ完成に近付いておりました。
絵画はどうか?
これは今だ平面的で、空間の出し方と言えば、前後を重ねる事。
右を向いている人であれば、ほぼ確実に左足を前に出して空間感を出そうとしているし、名案の使い分けによる立体感もない。
描写もなされていない。
エジプトからの影響が顕著である。
などと色々とありますが、パースによる遠近法を試みた後は見つかっていますし、ポンペイの壁画を見れば、そのリアリティはほぼウッチェロの先触れとして紹介されても良いくらいの出来です。
我々が多く目にする古代ギリシアの絵画は、壺絵などがほとんどで絵画としての独立性に薄く、また地と黒色との二色と言う限定を含んでいるものです。
タブローとして独立しているとは言い難いものです。
エジプトには木材に白亜地の板絵があったらしいのですが、これといった板絵は存在していません。
中心は、あくまで装飾としての絵画でした。
壁画、壺絵、などです。
で、例えばクレタでの海洋生物様式……例えばタコの図像はミュケナイに入り抽象化され、完全に紋様的な装飾に変容する事さえありました。
現実の模倣よりも抽象的な図像の方が好まれた場合もあったのです。
無論、抽象芸術という概念はありませんでしたが、デザインとしての抽象化は行なわれていたと言う事です。
これはつまり、より好ましい絵画的形体に、現実とはまた別の二次元上の形体に変型させる事が近代の発見ではなく古代からあったと言う事であります。
人間の頭脳の作用として、それは過去にも持ち合わせていたようです。
しかし、それはただそれだけの意味ではなく、より美術的なものを選んだと言う意味でもあります。
単純な模倣ではない物にも価値があった。
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