え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
最も典型的な物語を考える場合、「葛藤」と「冒険」と「勝利」及び(或いは)「別離」が考えられるのではないか。
「葛藤」とは、すなわち命題提起であり、何らかの問題に直面し判断を迫られる事である。
苦しい立場にあったり、何かを解決しなければならなかったり、疑問を投げかけられる事だ。
「冒険」とは、何か新しい環境に身を置く事だ。
それは自ら繰り出す事もあれば、向うからやって来る場合もあるが、どちらにせよ新しい事態に突入し、かいくぐることだ。
「勝利」すれば、その全てを乗り越えて命題を解決し、全体を皆あるべき状態に戻し(もしくは引き上げて)、最も中心にいる者が名誉やプライドを回復、或いは獲得し、栄光とともに穏やかさに戻る事だ。
「別離」すれば、何かを手に入れる為か、もしくは全てを失うかして、どちらにせよ失いたくないものを失うことになる。
典型的であるが故、最も平凡でもあり、最も安心できる物語になるだろう。
古い物語や、子供の為の物語は、こう言った形式を大いに踏襲していると思われる。
とはいえ、これらには物語である以上は何らかのかかわりをもたざるをえないものだとも思われる。
これらの説の先達は、まずアリストテレスである。
「葛藤」とは、すなわち命題提起であり、何らかの問題に直面し判断を迫られる事である。
苦しい立場にあったり、何かを解決しなければならなかったり、疑問を投げかけられる事だ。
「冒険」とは、何か新しい環境に身を置く事だ。
それは自ら繰り出す事もあれば、向うからやって来る場合もあるが、どちらにせよ新しい事態に突入し、かいくぐることだ。
「勝利」すれば、その全てを乗り越えて命題を解決し、全体を皆あるべき状態に戻し(もしくは引き上げて)、最も中心にいる者が名誉やプライドを回復、或いは獲得し、栄光とともに穏やかさに戻る事だ。
「別離」すれば、何かを手に入れる為か、もしくは全てを失うかして、どちらにせよ失いたくないものを失うことになる。
典型的であるが故、最も平凡でもあり、最も安心できる物語になるだろう。
古い物語や、子供の為の物語は、こう言った形式を大いに踏襲していると思われる。
とはいえ、これらには物語である以上は何らかのかかわりをもたざるをえないものだとも思われる。
これらの説の先達は、まずアリストテレスである。
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一般に印欧語族と言う場合は、インド古語からギリシア語からラテン語などの共通の祖語を持っている人々の事を言う。
仏典とヒッタイト神話とギリシア神話と北欧神話と聖書とが、遠い親戚の言葉で書かれていると思うとなにやらん奇妙な感じがする。
バベルの塔ではないが、てんでんばらばら散り散りにならなかったら一つの言語を共有して、「話せばわかる」という世界になったかな?などと平和な妄想でもしてみたくなるが、これは実際的でない話。
ただの妄想だ。
残念ながら、日本は中国からの影響が大であり、中国は印欧語圏ではない。
三蔵法師がインドから仏典を持ってきて翻訳なさってくださったわけだが、折角ならサンスクリット語の教科書も書してくだされば、更によかったのだが。
ところで、言語には構造がある。
その構造に乗っ取って文章化される。
「単語」だけで会話が出来ないではないが、それでは正確さを欠くし概念的なものの説明は非常に難しい。
壁画であれ絵文字であれボディランゲージであれ、命題的で順序の必要な説明は難しいものだ。
というか、ほとんど出来ない。
命題的と言うのは、まずA項を設定して、そのAがBの状態なり性質なりであることを提示し、故にCであると説明すること、だと考えてよい。
一般、洞窟壁画が「宗教画」か「絵画」か「絵文字」か色々と説はあるが、少なくとも「絵文字」だとするなら全体の秩序だって文章化されていないかぎりは、単語の集まりと言う事だ。
文章化されているようなら、それは「寓意画」でもあることになる。
「絵文字」から「寓意画」になるためには文章化が必要で、文章化ということは鑑賞者もその文章がどういう構造になってるか知らなければならない。
共通コードの上に立ってこそ、文章は作られ解読されるのだろう。
印欧祖語がある構造を持っているのなら、そこから派生した語派はそれぞれ独自ながらも互いに相似た構造を持っているのだろうか?
もしそうなら、それは「方言」に近くはないか?
方言は、同型言語の中の地方形態を言う。
根幹は同じだが、枝葉末節が少し違う……要するに構造は一緒だけど、単語が違うと言う事だ。
名古屋弁で「みゃあみゃあ」言われても栃木弁で「だべだべ」言われても、基本的に問題になるのが「単語」と「イントネーション」だ。
言語構造は一緒だから、翻訳は意味の擦り合わせだけで十分である。
文字情報として載せる場合には、これはとても面白い。
構造的には同じだから、その点では問題はないが、イントネーションが問題だ。
現代の日本語は所謂「標準語」の五十四文字で表記をするのだが、アクセントやイントネーションはなかなか文字化できない。
それから「ぁ」と「ぅ」の中間の音だったりすると、これもまた文字化出来ない。
兎角、方言は文字化しにくいものなのだ。
そこで翻って、テレビの『字幕』なんかを見てみたら、また面白い。
例えば、インドネシアの田舎の田舎にでも行って漁師のオヤジに話を聞いたりしてみよう。
『最近は、魚の数も減ったよ。温暖化の所為さ』
などと字幕では出るかもしれないが、むしろ雰囲気では
『こんとかぁ、さかんもかかんネェだ。あちくなってからよ』
と言った訛り字幕の方があうのかもしれない。
しかし……これは多いに問題がある……私はあえて訛らせてみたが、これは本当は全く正しくないのだ。
というのも、方言と言うのはある特定の言語の亜種であるからだ。
私が方言風に翻訳した物は、あくまでも「日本語の方言」を参考にしたもので、『日本語の方言』と『インドネシア語の方言』は対応の関係ではない。
両者の関係は『標準語ではない』という類似項があるにすぎない。
『インドネシアの標準でない言葉』に対して『日本の標準でない言葉』を「〜でない」という事に注目して方言を割りふったに過ぎない。
と言う事は、『インドネシアの方言』そのものが翻訳されたわけではないのである。
もし翻訳するとなると、標準語で翻訳した方が正しいのは正しい。
しかし、それでは方言の方言たる枝葉末節のヴァリエーションが消えてしまう。
基本的には、方言は方言らしさを残したまま翻訳できないと言う事になる。
仏典とヒッタイト神話とギリシア神話と北欧神話と聖書とが、遠い親戚の言葉で書かれていると思うとなにやらん奇妙な感じがする。
バベルの塔ではないが、てんでんばらばら散り散りにならなかったら一つの言語を共有して、「話せばわかる」という世界になったかな?などと平和な妄想でもしてみたくなるが、これは実際的でない話。
ただの妄想だ。
残念ながら、日本は中国からの影響が大であり、中国は印欧語圏ではない。
三蔵法師がインドから仏典を持ってきて翻訳なさってくださったわけだが、折角ならサンスクリット語の教科書も書してくだされば、更によかったのだが。
ところで、言語には構造がある。
その構造に乗っ取って文章化される。
「単語」だけで会話が出来ないではないが、それでは正確さを欠くし概念的なものの説明は非常に難しい。
壁画であれ絵文字であれボディランゲージであれ、命題的で順序の必要な説明は難しいものだ。
というか、ほとんど出来ない。
命題的と言うのは、まずA項を設定して、そのAがBの状態なり性質なりであることを提示し、故にCであると説明すること、だと考えてよい。
一般、洞窟壁画が「宗教画」か「絵画」か「絵文字」か色々と説はあるが、少なくとも「絵文字」だとするなら全体の秩序だって文章化されていないかぎりは、単語の集まりと言う事だ。
文章化されているようなら、それは「寓意画」でもあることになる。
「絵文字」から「寓意画」になるためには文章化が必要で、文章化ということは鑑賞者もその文章がどういう構造になってるか知らなければならない。
共通コードの上に立ってこそ、文章は作られ解読されるのだろう。
印欧祖語がある構造を持っているのなら、そこから派生した語派はそれぞれ独自ながらも互いに相似た構造を持っているのだろうか?
もしそうなら、それは「方言」に近くはないか?
方言は、同型言語の中の地方形態を言う。
根幹は同じだが、枝葉末節が少し違う……要するに構造は一緒だけど、単語が違うと言う事だ。
名古屋弁で「みゃあみゃあ」言われても栃木弁で「だべだべ」言われても、基本的に問題になるのが「単語」と「イントネーション」だ。
言語構造は一緒だから、翻訳は意味の擦り合わせだけで十分である。
文字情報として載せる場合には、これはとても面白い。
構造的には同じだから、その点では問題はないが、イントネーションが問題だ。
現代の日本語は所謂「標準語」の五十四文字で表記をするのだが、アクセントやイントネーションはなかなか文字化できない。
それから「ぁ」と「ぅ」の中間の音だったりすると、これもまた文字化出来ない。
兎角、方言は文字化しにくいものなのだ。
そこで翻って、テレビの『字幕』なんかを見てみたら、また面白い。
例えば、インドネシアの田舎の田舎にでも行って漁師のオヤジに話を聞いたりしてみよう。
『最近は、魚の数も減ったよ。温暖化の所為さ』
などと字幕では出るかもしれないが、むしろ雰囲気では
『こんとかぁ、さかんもかかんネェだ。あちくなってからよ』
と言った訛り字幕の方があうのかもしれない。
しかし……これは多いに問題がある……私はあえて訛らせてみたが、これは本当は全く正しくないのだ。
というのも、方言と言うのはある特定の言語の亜種であるからだ。
私が方言風に翻訳した物は、あくまでも「日本語の方言」を参考にしたもので、『日本語の方言』と『インドネシア語の方言』は対応の関係ではない。
両者の関係は『標準語ではない』という類似項があるにすぎない。
『インドネシアの標準でない言葉』に対して『日本の標準でない言葉』を「〜でない」という事に注目して方言を割りふったに過ぎない。
と言う事は、『インドネシアの方言』そのものが翻訳されたわけではないのである。
もし翻訳するとなると、標準語で翻訳した方が正しいのは正しい。
しかし、それでは方言の方言たる枝葉末節のヴァリエーションが消えてしまう。
基本的には、方言は方言らしさを残したまま翻訳できないと言う事になる。
聖遺物なるものがキリスト教にはある。
イエス、及び諸聖人の死体や持ち物などのことである。
例えば、イエスが磔刑にあった時の十字架、打ち付けられた釘、ヴェロニカがイエスの顔を拭いた布、その他諸々。
例えば、ドミニクスの頭蓋骨、ザビエルの手、他誰々の舌やら何やら……勿論、服や持ち物や殉教した聖人のその当の処刑道具もある。
平たく言ってしまえば、こういうのを崇物、フェティシズムという。
ある人物が持っていた物が、その人物とほぼ同一の性質を帯びると言うような事である。
アニミズムからキリスト教まで広く用いられている所を見ると、人間の精神にとってかなり普遍性を持っているのかもしれない。
類似したものに、『鬼ごっこ』を考えてみたらわかりやすいかもしれない。
私が鬼であった時。
A君にタッチするとしよう。
そこで実際に起きているのは、私の手がA君に触れているというただそれだけだ。
しかし、概念上では私の『鬼』は、Aに接触する事で移ったことになる。
それはそういう約束事がお互いのうちにあるから……ではないだろう。
これは約束事ではない。
直感的にもそう感じているはずだが、どうだろう?
私は『タッチされる』というのは、何かが移ったのを感じざるをえない。
もっともっと卑近な例を出そう。
小学校の時、校内で「うんこ」をすると「ウンコマン」とか「ウンコ野郎」とか言われた事はありはしまいか?
そして「逃げろ!」と誰かが言い出したが早い、皆逃げていたりする。
実際には『ウンコ』と『ウンコした者』の関係は薄い。
実際上は、ほとんど肛門の周りだけに関係していると言っても良い。
しかし、子供達の精神上では『ウンコ』と言う物質に関わった事で『ウンコした者』は『汚穢』というウンコと同一性質を持つ事になる。
そして、この『汚穢』はタッチする事によって他人に移る事になる。
これがフィティシズムの基本的性格と言って良いと思う。
ところで、「頼朝の頭蓋骨」の話を知っているだろうか?
「え、こちらが頼朝公のしゃれこうべでございやす」
「ほう。しかし、些か小さいのう。鎌倉殿のおハチは大きいと聞いとったがの?」
「さればこそ、これこそは……」
「ふむ?」
「頼朝公三歳のみぎりのしゃれこうべにごぜぇやす」
というとぼけた話だ。
ヴァリエーションはあるらしく、この後に五歳のみぎりのしゃれこうべを見ることもあるそうだ。
まあ、それは良しとして、聖遺物というのもあながちこれと近いものがある。
聖骸布(イエスの死体を包んだ布)は十数枚、磔刑の時に打った釘は三十本近くあるそうだ。
可哀想に、これじゃあナザレに住んでたイエスさんは何十人磔にされたことになるのやら。
ちなみに磔という刑罰は大変に不名誉な刑罰である。
ユダヤ教サドカイ派とパリサイ派は、本来だったら投石刑になるだろうイエスを、憎きに憎きを重ねて強盗やら国家反逆者が処される刑罰をイエスにかしたのであった。
更に。
「イエス」という名前はありふれた名前だったそうだ。
日本で言えば、「なされ村の田吾作」「なされ邑の太郎」といったところだろうか?
……逸れた話を戻す。
とりわけ、イエスに関する聖遺物は「頼朝の髑髏」と同じようなもので、もう端から冗談みたいな感じがするのだが。
じつは、これには理由がある。
聖遺物といえば、この人……コンスタンティヌス帝の母君ヘレナ……が、くせものである。
この人は、キリスト教にはまっていた人だ。
熱烈な信仰心は時に“はまる”という表現の方があっているのではないかと思う時がある。
ヘレナの場合はそうだった。
ふらふらと出かけては、キリストが張り付けられた十字架を見つけたり、釘を見つけたりする。
どうしてそれがキリストのものか?等という場合、科学的理由は二の次だ。
なんと言っても最高権力者の母上であらせられる。
全てはOK、キリスト教にしたって一番偉いところから権威の衣で包まれた聖釘などを示されたら、万歳こそあれ「そういうのは良くないんじゃない?」などと言うはずもない。
かくしてヘレナは数々の“発見”をしたわけだった。
元々、イエスはただ神のみを信じろと説いていた。
偶像はいかんと。
ところが、世俗一般の我々にとっては物があったほうが分かりやすいし祈りやすい。
モーセが石版を叩き割る程怒っても、所詮我々は聖人とは違う。
ついつい“物”と向かい合ってしまうものだ。
もちろん、キリスト教徒が拝んでいるのは“物”そのものではない。
しかし、かつての偶像崇拝者だって物そのものを拝んでいたわけではない。
その背後にある神に祈っていたのだ。
私達には、どのみち崇物的な聖遺物と偶像崇拝の区別はつきにくい様に思う。
イエス、及び諸聖人の死体や持ち物などのことである。
例えば、イエスが磔刑にあった時の十字架、打ち付けられた釘、ヴェロニカがイエスの顔を拭いた布、その他諸々。
例えば、ドミニクスの頭蓋骨、ザビエルの手、他誰々の舌やら何やら……勿論、服や持ち物や殉教した聖人のその当の処刑道具もある。
平たく言ってしまえば、こういうのを崇物、フェティシズムという。
ある人物が持っていた物が、その人物とほぼ同一の性質を帯びると言うような事である。
アニミズムからキリスト教まで広く用いられている所を見ると、人間の精神にとってかなり普遍性を持っているのかもしれない。
類似したものに、『鬼ごっこ』を考えてみたらわかりやすいかもしれない。
私が鬼であった時。
A君にタッチするとしよう。
そこで実際に起きているのは、私の手がA君に触れているというただそれだけだ。
しかし、概念上では私の『鬼』は、Aに接触する事で移ったことになる。
それはそういう約束事がお互いのうちにあるから……ではないだろう。
これは約束事ではない。
直感的にもそう感じているはずだが、どうだろう?
私は『タッチされる』というのは、何かが移ったのを感じざるをえない。
もっともっと卑近な例を出そう。
小学校の時、校内で「うんこ」をすると「ウンコマン」とか「ウンコ野郎」とか言われた事はありはしまいか?
そして「逃げろ!」と誰かが言い出したが早い、皆逃げていたりする。
実際には『ウンコ』と『ウンコした者』の関係は薄い。
実際上は、ほとんど肛門の周りだけに関係していると言っても良い。
しかし、子供達の精神上では『ウンコ』と言う物質に関わった事で『ウンコした者』は『汚穢』というウンコと同一性質を持つ事になる。
そして、この『汚穢』はタッチする事によって他人に移る事になる。
これがフィティシズムの基本的性格と言って良いと思う。
ところで、「頼朝の頭蓋骨」の話を知っているだろうか?
「え、こちらが頼朝公のしゃれこうべでございやす」
「ほう。しかし、些か小さいのう。鎌倉殿のおハチは大きいと聞いとったがの?」
「さればこそ、これこそは……」
「ふむ?」
「頼朝公三歳のみぎりのしゃれこうべにごぜぇやす」
というとぼけた話だ。
ヴァリエーションはあるらしく、この後に五歳のみぎりのしゃれこうべを見ることもあるそうだ。
まあ、それは良しとして、聖遺物というのもあながちこれと近いものがある。
聖骸布(イエスの死体を包んだ布)は十数枚、磔刑の時に打った釘は三十本近くあるそうだ。
可哀想に、これじゃあナザレに住んでたイエスさんは何十人磔にされたことになるのやら。
ちなみに磔という刑罰は大変に不名誉な刑罰である。
ユダヤ教サドカイ派とパリサイ派は、本来だったら投石刑になるだろうイエスを、憎きに憎きを重ねて強盗やら国家反逆者が処される刑罰をイエスにかしたのであった。
更に。
「イエス」という名前はありふれた名前だったそうだ。
日本で言えば、「なされ村の田吾作」「なされ邑の太郎」といったところだろうか?
……逸れた話を戻す。
とりわけ、イエスに関する聖遺物は「頼朝の髑髏」と同じようなもので、もう端から冗談みたいな感じがするのだが。
じつは、これには理由がある。
聖遺物といえば、この人……コンスタンティヌス帝の母君ヘレナ……が、くせものである。
この人は、キリスト教にはまっていた人だ。
熱烈な信仰心は時に“はまる”という表現の方があっているのではないかと思う時がある。
ヘレナの場合はそうだった。
ふらふらと出かけては、キリストが張り付けられた十字架を見つけたり、釘を見つけたりする。
どうしてそれがキリストのものか?等という場合、科学的理由は二の次だ。
なんと言っても最高権力者の母上であらせられる。
全てはOK、キリスト教にしたって一番偉いところから権威の衣で包まれた聖釘などを示されたら、万歳こそあれ「そういうのは良くないんじゃない?」などと言うはずもない。
かくしてヘレナは数々の“発見”をしたわけだった。
元々、イエスはただ神のみを信じろと説いていた。
偶像はいかんと。
ところが、世俗一般の我々にとっては物があったほうが分かりやすいし祈りやすい。
モーセが石版を叩き割る程怒っても、所詮我々は聖人とは違う。
ついつい“物”と向かい合ってしまうものだ。
もちろん、キリスト教徒が拝んでいるのは“物”そのものではない。
しかし、かつての偶像崇拝者だって物そのものを拝んでいたわけではない。
その背後にある神に祈っていたのだ。
私達には、どのみち崇物的な聖遺物と偶像崇拝の区別はつきにくい様に思う。
国立西洋でやっているムンク展。
中々良いです。
企画も作品も、おもしろいですから、行って損はしないと思う。
エドヴァルト・ムンク……1863年にノルウェーのオスロ、当時の名前でクリスチャニアに生まれた。
ヴァイキング、フィヨルド、白夜、雪、杉、しかし近代のきざはしは勿論そこにあった。
確かにノルウェーは欧州史にとって特別な役割は果していない様に見える、ヴァイキングを除いて。
しかしフィレンツェ、パリ、ロンドンの各々の成果……すなわち、ルネサンス、フランス革命、産業革命……と関わりあいなく近代都市化されていないなんてわけはなかったが、田舎でもあった。
時は十九世紀末。
あの時は文化の中心はフランスだった。
いや、ヨーロッパの中心は、と言い換えても良い。
ドイツもイタリアもまだ完成していなく、オーストリア、トルコは弱体化していたし、イギリスはアメリカと小競合いした後だったはずだ。
ともあれ、機械と進歩の輝かしい躍進を胸に抱き人々はパリへ向かった。
クリスチャニアで生を受けた軍医の息子は、世紀末の風の中で確かに時代の匂いに浸れただろう。
しかし、彼は光ではなく、影をも……。
彼の周りにいる「病、狂気、死」がゆりかごの「天使」だった。
以来、それは彼に付きまとった。
母の死、姉の死、妹の狂質、父は憂鬱で頑固だった。
1880年になると、ノルウェー人イプセンは「人形の家」を書いて、新しい女を創造した。
しかし、考えてみれば、このノラという近代的で自立した、家庭から飛び出した女性は、高々その程度でもあり、止めどない自由への一歩にも見える。
そのノルウェーだ、イェーゲルがいる。
彼は前衛グループ「クリスチャニア・ボヘミアン」というものを組んだ詩人・思想家だったそうだ。
自由、前衛、十九世紀末……容易にデカダンスへと傾きそうな言葉だ。
実際そうだった。
ノルウェーではムンクには狭すぎた、素朴すぎた。
時代は既に印象派さえ最先端として定着していたのだから。
印象派は具体的な新しい絵画であり、最先端だった。
ゴッホはムンクの10歳年上だ、勿論知られず売れずだが。
世紀末。
ひたすら光を追い求めた印象派の影もそこにあったはずだ。
栄光のパリ万博へ突き進む足並みを見つめる邪眼もあったろう。
エリファス・レヴィは既に死んでいたが、ブーラン、若きガイタ、ペラダン、ユイスマンスは新世紀に突っ込むのを見ていた。
近代オカルティズムは生まれていたのだ。
ボードレール、そしてマラルメ。
後にムンクはマラルメとも会っている。
明らかにその気風は暗鬱として怪しげだった。
ムンクは確かにポスト印象派だった。
彼の描く色彩は強く、明るく、影は青紫だったし混色は少ない、形態も素描的である。
だが、彼の揺らめくようなリズムはどうしたことだろう。
ゴッホは良く“うねり”を指摘されるが、ムンクも良くうねっている。
この二人は時代的には非常に近い。
しかも二人は世紀末的だ。
例えば、二人とも『星月夜』という作品を描いている。
夜の星月を印象派が描くのは、たしかに珍しいが、それ以上に考えてもらいたい。
ゴッホの星月夜は果たしてポスト印象派なのか?
それとも象徴主義的なのか?
あきらかにそこに描かれているのは、眼で見たままの印象を再現する事ではない。
心象であり、宗教的魔術的……もし許されるならコズミックな神話さえ何か感じるかもしれない……である。
ムンクも同じく。
しかし、ムンクは魔術的と言うよりも精神分析的、おとぎ話的である。
それは神話になるその根っこの部分に近い。
人間の精神の各々の面相、もっぱら暗い部分が多いが、それの反映である。
ちなみにフロイトは1850年代の生れであるし、心理学は既にあった。
『不安』『絶望』『叫び』といった一群の作品がある。
フィヨルドは揺らめいている。
町は輪郭が暗い中に黒く取られているばかりだ。
空は赤い、恐ろしく赤い。
そして橋も真っ赤に染まっている。
橋はうねった全体に対して、切り立つ様に左へ向かう、なんという奇妙な橋だろう。
吸い込まれるように当て所なく消えていく橋だ。
しかし揺らめきに対して限りなく均衡を保っている直線でもある。
この構図は何か奇妙だ。
「叫び」で男は自然を貫く果てしない、終りの無い叫び声を聞いている。
耳をつんざかれている。
二人の男は、彼を無視して左端へ消えていく。
「不安」では橋に人がいる、それも大勢。
皆が私を見る。
しかし、その眼は曖昧だ。
いやムンクの描く人間はしょっちゅう曖昧な眼をしている。
見られているのはわかるのだが、捕らえ所なぞない、黒目だけ浮かび上がった眼や、ぼんやりと眉根の影に隠れた眼。
それに顔さえ曖昧に消えてしまう時がある。
はっきりとした表情でなく、何かの感情だけを(多くは快楽か絶望)精々匂わせる程度で終える。
不安での顔ははっきりとこちらを注視している。
無表情である。
ムンクにしては珍しいくらいに絵具が厚く塗られ、赤い大気も抜けずに留まり、構図もより緊密で狭苦しく、息が詰まる。
「絶望」で、それはぽかんとする。
大気は抜けるし、絵具は薄くなる。
男は俯いて絶望する。
ゆっくり身体を後ろに傾けるのかもしれない。
画面の右端に両手とからだが消えていく。
ムンク展を見に行くなら、一番最初のフロアをじっくりと……もし出来るなら、閉館ぎりぎりに。
3時に入ってじっくり見回って5時15分に一番最初のフロアに戻ってみたら、いいのが沢山見れた。
長居するつもりがないのなら、4時頃に入って閉館間際を狙うと良い。
「声」「吸血鬼」「灰」「メタボリズム」「絶望」「不安」「白と赤」「病める子」などの有名作あり。
一つの思想としての部屋を作る……生命のフリーズというのをそう見るという良い展示だ。
中々良いです。
企画も作品も、おもしろいですから、行って損はしないと思う。
エドヴァルト・ムンク……1863年にノルウェーのオスロ、当時の名前でクリスチャニアに生まれた。
ヴァイキング、フィヨルド、白夜、雪、杉、しかし近代のきざはしは勿論そこにあった。
確かにノルウェーは欧州史にとって特別な役割は果していない様に見える、ヴァイキングを除いて。
しかしフィレンツェ、パリ、ロンドンの各々の成果……すなわち、ルネサンス、フランス革命、産業革命……と関わりあいなく近代都市化されていないなんてわけはなかったが、田舎でもあった。
時は十九世紀末。
あの時は文化の中心はフランスだった。
いや、ヨーロッパの中心は、と言い換えても良い。
ドイツもイタリアもまだ完成していなく、オーストリア、トルコは弱体化していたし、イギリスはアメリカと小競合いした後だったはずだ。
ともあれ、機械と進歩の輝かしい躍進を胸に抱き人々はパリへ向かった。
クリスチャニアで生を受けた軍医の息子は、世紀末の風の中で確かに時代の匂いに浸れただろう。
しかし、彼は光ではなく、影をも……。
彼の周りにいる「病、狂気、死」がゆりかごの「天使」だった。
以来、それは彼に付きまとった。
母の死、姉の死、妹の狂質、父は憂鬱で頑固だった。
1880年になると、ノルウェー人イプセンは「人形の家」を書いて、新しい女を創造した。
しかし、考えてみれば、このノラという近代的で自立した、家庭から飛び出した女性は、高々その程度でもあり、止めどない自由への一歩にも見える。
そのノルウェーだ、イェーゲルがいる。
彼は前衛グループ「クリスチャニア・ボヘミアン」というものを組んだ詩人・思想家だったそうだ。
自由、前衛、十九世紀末……容易にデカダンスへと傾きそうな言葉だ。
実際そうだった。
ノルウェーではムンクには狭すぎた、素朴すぎた。
時代は既に印象派さえ最先端として定着していたのだから。
印象派は具体的な新しい絵画であり、最先端だった。
ゴッホはムンクの10歳年上だ、勿論知られず売れずだが。
世紀末。
ひたすら光を追い求めた印象派の影もそこにあったはずだ。
栄光のパリ万博へ突き進む足並みを見つめる邪眼もあったろう。
エリファス・レヴィは既に死んでいたが、ブーラン、若きガイタ、ペラダン、ユイスマンスは新世紀に突っ込むのを見ていた。
近代オカルティズムは生まれていたのだ。
ボードレール、そしてマラルメ。
後にムンクはマラルメとも会っている。
明らかにその気風は暗鬱として怪しげだった。
ムンクは確かにポスト印象派だった。
彼の描く色彩は強く、明るく、影は青紫だったし混色は少ない、形態も素描的である。
だが、彼の揺らめくようなリズムはどうしたことだろう。
ゴッホは良く“うねり”を指摘されるが、ムンクも良くうねっている。
この二人は時代的には非常に近い。
しかも二人は世紀末的だ。
例えば、二人とも『星月夜』という作品を描いている。
夜の星月を印象派が描くのは、たしかに珍しいが、それ以上に考えてもらいたい。
ゴッホの星月夜は果たしてポスト印象派なのか?
それとも象徴主義的なのか?
あきらかにそこに描かれているのは、眼で見たままの印象を再現する事ではない。
心象であり、宗教的魔術的……もし許されるならコズミックな神話さえ何か感じるかもしれない……である。
ムンクも同じく。
しかし、ムンクは魔術的と言うよりも精神分析的、おとぎ話的である。
それは神話になるその根っこの部分に近い。
人間の精神の各々の面相、もっぱら暗い部分が多いが、それの反映である。
ちなみにフロイトは1850年代の生れであるし、心理学は既にあった。
『不安』『絶望』『叫び』といった一群の作品がある。
フィヨルドは揺らめいている。
町は輪郭が暗い中に黒く取られているばかりだ。
空は赤い、恐ろしく赤い。
そして橋も真っ赤に染まっている。
橋はうねった全体に対して、切り立つ様に左へ向かう、なんという奇妙な橋だろう。
吸い込まれるように当て所なく消えていく橋だ。
しかし揺らめきに対して限りなく均衡を保っている直線でもある。
この構図は何か奇妙だ。
「叫び」で男は自然を貫く果てしない、終りの無い叫び声を聞いている。
耳をつんざかれている。
二人の男は、彼を無視して左端へ消えていく。
「不安」では橋に人がいる、それも大勢。
皆が私を見る。
しかし、その眼は曖昧だ。
いやムンクの描く人間はしょっちゅう曖昧な眼をしている。
見られているのはわかるのだが、捕らえ所なぞない、黒目だけ浮かび上がった眼や、ぼんやりと眉根の影に隠れた眼。
それに顔さえ曖昧に消えてしまう時がある。
はっきりとした表情でなく、何かの感情だけを(多くは快楽か絶望)精々匂わせる程度で終える。
不安での顔ははっきりとこちらを注視している。
無表情である。
ムンクにしては珍しいくらいに絵具が厚く塗られ、赤い大気も抜けずに留まり、構図もより緊密で狭苦しく、息が詰まる。
「絶望」で、それはぽかんとする。
大気は抜けるし、絵具は薄くなる。
男は俯いて絶望する。
ゆっくり身体を後ろに傾けるのかもしれない。
画面の右端に両手とからだが消えていく。
ムンク展を見に行くなら、一番最初のフロアをじっくりと……もし出来るなら、閉館ぎりぎりに。
3時に入ってじっくり見回って5時15分に一番最初のフロアに戻ってみたら、いいのが沢山見れた。
長居するつもりがないのなら、4時頃に入って閉館間際を狙うと良い。
「声」「吸血鬼」「灰」「メタボリズム」「絶望」「不安」「白と赤」「病める子」などの有名作あり。
一つの思想としての部屋を作る……生命のフリーズというのをそう見るという良い展示だ。
漫画にはコマがあり、コマには順序があります。
日本の多くの場合。
21
43
の順序で進みます。
アメリカでは
12
34
と進みます。
日本の場合、ページは右に綴じていますが、アメリカ等では左に綴じています
この違いは何に由来するかと言うと、言語の並べ方の違いです。
日本語は縦書きで右から左へ、英語は横書きで左から右へと進みます。
この事を考えると、漫画は絵画よりも文章に近い構造を有しているように思えます。
しかし、それはページ全体の事でもあります。
つまりコマ割りは文章的構造です。
しかし、コマの一つ一つは(往々にして)四角いフレームの中で秩序をもって描かれる限り、絵画と同じ構造をもっています。
絵画に置いて重力関係は左上から右下へ発生しています。
右下が一番密度が濃く、左上が一番密度が軽いのが、一般的な構造です。
漫画の文章性を前提にすると、当り前の事ですが、漫画の完結は一コマ目から最後のコマまでであって、コマ一つ一つは常に前後と連結していなければなりません。
漫画の全体は、勿論一貫性を欲しています。
例えば、我々はコマ毎に違う画風である事を求めていないようです。
一つの漫画の中では、同じキャラクターや設定は同じ様に書かれていた方が良いわけです。
というのは、漫画には通時性があり、一コマ目から最後のコマまでは一貫した時空間軸が流れているからです。
一貫した文章の内には、色々な表現があってもしかるべきですが、まったく異なる表現形式を詰め込む事は難しいでしょう。
文字記号は、他の文字と異なっている事に……つまり全ての文字は、互いに違っている事を前提としています……コンテクストの中で異なり方が同一でなければ、文字としては上手く機能しにくいのです。
一貫した漫画の中で、コマ毎に表現が大きく異なっていると、差異化を再構成しなくてはならないのです。
例えば、一コマ目を劇画風に描いて、二コマ目を萌えアニメ調に描いて、三コマ目をアメコミ風に、四コマ目を印象派的に、とやっていたら、最初のコマで成立した構成を、次のコマではその表現らしい構成に再構成し、また次のコマでは、とやらなくてはなりません。
これは見難いです。
コマ内での記号の差異化は容易に行えるでしょうが、一貫した連鎖として各コマが連絡しづらくなるからです。
漫画は映画に似ています。
しかし、映画には固定化されたフレーミング(往々にして横長の四角い画面)が決められています。
漫画のフレーミングはかなり自由です。
線で囲み込めば、その中を空間として把握できるのですから、どのような仕方でもある程度は可能です。
縦長でもだ円でも小さくても大きくても。
一枚の紙に“区切り”を付ける、時空間として囲い込む、この『線』と言う機能は秀逸です。
過去に絵巻物や壁画などがありましたが、あれは異時同図法を用いていました。
同じ空間上に異なった時間のものを載せるアレです。
今我々は、同じ空間で異なった時間を表そうとしたら、容易に『線』を引いて分ける事が出来ます。
ただの地面に一本のラインを引くだけでそこには空間が実際に区切られます。
現実的には地面は、線のこちら側も、線の上も、線のあちら側も同じです。
これは形而上の問題でしょうか?
この記号は眼に見えて作用しています。
ともあれ、線の及ぼす作用は空間を分断し、人間の意識を線のこちらとあちらとに分けるのです。
しかし、その線の中にも線の外にも……言い換えれば、コマの内にもページ全体にも作用しているものがあります。
重力です。
視覚は重力の影響を受けます。
横書き圏の漫画にせよ、縦書き圏の漫画にせよ、重力に従って上から下へ進むのが一般的です。
勿論、コマ内のカメラワークは自由ですが、常態では頭を上にして足を下にしています。
どの漫画も上から下へコマは進みます。
絵画においても、全画面的な作業をしていても、常に視線は重力に従って動いています。
上方への指示がなければ、視線は上から下へは動きません。
いや、上昇したとしても、それが重力に対する反重力と言うことを知っているはずです。
例えば、「キリストの変容」が描かれる時、キリストは浮いており、特にバロックでは上昇的でありますが、重力に対しての上昇性で画面中のどこにも重力源が存在していないと言う事はありえません。
少なくとも、作品が提示される上でそれが物質として存在し、視線が重力の影響を被っている限りは、常に重力に付きまとわれています。
文章性を前提としてる漫画のコマ割りでは、ほとんどの下から上へコマが進む事はありえません。
そういうコマ割りがあれば、読者は戸惑うでしょう。
しかし、既存の重力源から“出来るだけ”解放してる仕方も絵画や漫画のコマ割りにはあります。
絵画の場合は全画面的な仕方で重力に対して相殺する描き方をする事もあります、一種のイリュージョンです。
もう一つのイリュージョンは、新たな重力源の獲得です。
つまり『中心』と『放射』です。
画面の中心に向けて収斂していく力は、重力のようなイリュージョンを起こします。
或いは遠心力的に放散していく場合にも重力を起こします。
また、絵画は、重力に対して画面を平行にすることで重力を無化する事がある程度可能です。
つまり絵を水平に寝かせるか天上に据えるのです。
日本の多くの場合。
21
43
の順序で進みます。
アメリカでは
12
34
と進みます。
日本の場合、ページは右に綴じていますが、アメリカ等では左に綴じています
この違いは何に由来するかと言うと、言語の並べ方の違いです。
日本語は縦書きで右から左へ、英語は横書きで左から右へと進みます。
この事を考えると、漫画は絵画よりも文章に近い構造を有しているように思えます。
しかし、それはページ全体の事でもあります。
つまりコマ割りは文章的構造です。
しかし、コマの一つ一つは(往々にして)四角いフレームの中で秩序をもって描かれる限り、絵画と同じ構造をもっています。
絵画に置いて重力関係は左上から右下へ発生しています。
右下が一番密度が濃く、左上が一番密度が軽いのが、一般的な構造です。
漫画の文章性を前提にすると、当り前の事ですが、漫画の完結は一コマ目から最後のコマまでであって、コマ一つ一つは常に前後と連結していなければなりません。
漫画の全体は、勿論一貫性を欲しています。
例えば、我々はコマ毎に違う画風である事を求めていないようです。
一つの漫画の中では、同じキャラクターや設定は同じ様に書かれていた方が良いわけです。
というのは、漫画には通時性があり、一コマ目から最後のコマまでは一貫した時空間軸が流れているからです。
一貫した文章の内には、色々な表現があってもしかるべきですが、まったく異なる表現形式を詰め込む事は難しいでしょう。
文字記号は、他の文字と異なっている事に……つまり全ての文字は、互いに違っている事を前提としています……コンテクストの中で異なり方が同一でなければ、文字としては上手く機能しにくいのです。
一貫した漫画の中で、コマ毎に表現が大きく異なっていると、差異化を再構成しなくてはならないのです。
例えば、一コマ目を劇画風に描いて、二コマ目を萌えアニメ調に描いて、三コマ目をアメコミ風に、四コマ目を印象派的に、とやっていたら、最初のコマで成立した構成を、次のコマではその表現らしい構成に再構成し、また次のコマでは、とやらなくてはなりません。
これは見難いです。
コマ内での記号の差異化は容易に行えるでしょうが、一貫した連鎖として各コマが連絡しづらくなるからです。
漫画は映画に似ています。
しかし、映画には固定化されたフレーミング(往々にして横長の四角い画面)が決められています。
漫画のフレーミングはかなり自由です。
線で囲み込めば、その中を空間として把握できるのですから、どのような仕方でもある程度は可能です。
縦長でもだ円でも小さくても大きくても。
一枚の紙に“区切り”を付ける、時空間として囲い込む、この『線』と言う機能は秀逸です。
過去に絵巻物や壁画などがありましたが、あれは異時同図法を用いていました。
同じ空間上に異なった時間のものを載せるアレです。
今我々は、同じ空間で異なった時間を表そうとしたら、容易に『線』を引いて分ける事が出来ます。
ただの地面に一本のラインを引くだけでそこには空間が実際に区切られます。
現実的には地面は、線のこちら側も、線の上も、線のあちら側も同じです。
これは形而上の問題でしょうか?
この記号は眼に見えて作用しています。
ともあれ、線の及ぼす作用は空間を分断し、人間の意識を線のこちらとあちらとに分けるのです。
しかし、その線の中にも線の外にも……言い換えれば、コマの内にもページ全体にも作用しているものがあります。
重力です。
視覚は重力の影響を受けます。
横書き圏の漫画にせよ、縦書き圏の漫画にせよ、重力に従って上から下へ進むのが一般的です。
勿論、コマ内のカメラワークは自由ですが、常態では頭を上にして足を下にしています。
どの漫画も上から下へコマは進みます。
絵画においても、全画面的な作業をしていても、常に視線は重力に従って動いています。
上方への指示がなければ、視線は上から下へは動きません。
いや、上昇したとしても、それが重力に対する反重力と言うことを知っているはずです。
例えば、「キリストの変容」が描かれる時、キリストは浮いており、特にバロックでは上昇的でありますが、重力に対しての上昇性で画面中のどこにも重力源が存在していないと言う事はありえません。
少なくとも、作品が提示される上でそれが物質として存在し、視線が重力の影響を被っている限りは、常に重力に付きまとわれています。
文章性を前提としてる漫画のコマ割りでは、ほとんどの下から上へコマが進む事はありえません。
そういうコマ割りがあれば、読者は戸惑うでしょう。
しかし、既存の重力源から“出来るだけ”解放してる仕方も絵画や漫画のコマ割りにはあります。
絵画の場合は全画面的な仕方で重力に対して相殺する描き方をする事もあります、一種のイリュージョンです。
もう一つのイリュージョンは、新たな重力源の獲得です。
つまり『中心』と『放射』です。
画面の中心に向けて収斂していく力は、重力のようなイリュージョンを起こします。
或いは遠心力的に放散していく場合にも重力を起こします。
また、絵画は、重力に対して画面を平行にすることで重力を無化する事がある程度可能です。
つまり絵を水平に寝かせるか天上に据えるのです。
日本語の曖昧さ故に、私達の目の前には「表現」「芸術」「美術」などの言葉が類似して転がっています。
どのように区別するかは、人それぞれと言うところがあります。
一般的に「芸術」はより広範な>感動的なものについて。
「美術」は専ら視覚的表現について。
「表現」は表れ方や表し方について。
と区別されているようです。
ではアートの「表現」……この事に付いて、考えるのを手始めとしましょう。
『表現』とは「Explanation(説明)」ではなく「Expression(表現)」だと思われています。
前者には意味的なものだけ、後者には精神的なものが読み取れます。
では、後者が正しいのか?
しかし、考えてください。
私達が考えているのはアートに関してのはずです。
鑑賞者の心的動揺、感動を誘うのが必ずしも何らかの表現だとは限りません。
説明的に述べたとしても、そこにアーティスティックなものを見る事はあります。
「公理」は時として非常に美しい。
一方で感情の溢出が必ずしも芸術性を帯びてるとは限りません。
この事について、詳しく見るべきです。
例えば、動物が感情を剥き出しにして威嚇するとしましょう。
それは表現です。
感情的な表現です。
しかし、同時に記号的な意味もあります。
その動物がどう言う感情であり、これからどういう態度に出ようとしているのか、という。
その威嚇行為は芸術になりえるでしょう、しかし、常になり得るわけではありません。
我々が呆れた時にポカンとする顔や肩をそびやかしたりする事は、アートとは関係ありません。
あえて言えば、それは素材です。
同じ様に精神的なものを全て吐露したとしても、それがアートになるとは限らないのです。
反対に、説明的な言葉もアートであり、ないと言えるでしょう。
私達が何かを伝えようとした時、できるだけはっきりと分かりやすい形にしようとするものです。
お互い(伝える側、伝えられる側)に同様のコードを成立させようとして、そのコードに沿って伝えます。
その最たるものが、科学的記述や数学的記述です。
まったくもって“伝える”ということはアートにとって重要な事です。
鑑賞者になんらかのアプローチをしていると言う限り、何かを伝えられているか、そうでないか、は重要な事です。
そういった説明的記述はある意味ではアートに対峙する表現でもあります。
しかし、それでもそこにまつわるものが感動と関係するかと言えば、別です。
説明は説明でしかない事が往々としてあります。
「表現」とは「説明」でもなければ「感情をあらわにする事」でもありません。
感情のままに無駄口を叩くより、短い詩の方が表現されています。
スマートな公式より、良い建築の方が表現されているものが多いです。
「表現」に含まれる問題は、「形式」……つまり「技術」と「表し方」です。
ここでいう「技術」とは鍛練から生み出されるものではなく、適切な処理が施されているかどうか、です。
アートに置いて求められているのは、ある種の感動であり、直感的な……或いは体験的な……言い様の無い感覚です。
それは、視覚的であっていいでしょう、聴覚的であっても、触覚的でも、理性的であっても構いません。
そのどれをも全て満たしても構いません。
これらを確実に伝える為には、感情のままでは無理なのです。
かといって説明では切り詰め過ぎています。
「表現」とは何か?
ここでは一旦「感情」と「説明」を両方とも切り捨てて考える事をおすすめします。
どのように区別するかは、人それぞれと言うところがあります。
一般的に「芸術」はより広範な>感動的なものについて。
「美術」は専ら視覚的表現について。
「表現」は表れ方や表し方について。
と区別されているようです。
ではアートの「表現」……この事に付いて、考えるのを手始めとしましょう。
『表現』とは「Explanation(説明)」ではなく「Expression(表現)」だと思われています。
前者には意味的なものだけ、後者には精神的なものが読み取れます。
では、後者が正しいのか?
しかし、考えてください。
私達が考えているのはアートに関してのはずです。
鑑賞者の心的動揺、感動を誘うのが必ずしも何らかの表現だとは限りません。
説明的に述べたとしても、そこにアーティスティックなものを見る事はあります。
「公理」は時として非常に美しい。
一方で感情の溢出が必ずしも芸術性を帯びてるとは限りません。
この事について、詳しく見るべきです。
例えば、動物が感情を剥き出しにして威嚇するとしましょう。
それは表現です。
感情的な表現です。
しかし、同時に記号的な意味もあります。
その動物がどう言う感情であり、これからどういう態度に出ようとしているのか、という。
その威嚇行為は芸術になりえるでしょう、しかし、常になり得るわけではありません。
我々が呆れた時にポカンとする顔や肩をそびやかしたりする事は、アートとは関係ありません。
あえて言えば、それは素材です。
同じ様に精神的なものを全て吐露したとしても、それがアートになるとは限らないのです。
反対に、説明的な言葉もアートであり、ないと言えるでしょう。
私達が何かを伝えようとした時、できるだけはっきりと分かりやすい形にしようとするものです。
お互い(伝える側、伝えられる側)に同様のコードを成立させようとして、そのコードに沿って伝えます。
その最たるものが、科学的記述や数学的記述です。
まったくもって“伝える”ということはアートにとって重要な事です。
鑑賞者になんらかのアプローチをしていると言う限り、何かを伝えられているか、そうでないか、は重要な事です。
そういった説明的記述はある意味ではアートに対峙する表現でもあります。
しかし、それでもそこにまつわるものが感動と関係するかと言えば、別です。
説明は説明でしかない事が往々としてあります。
「表現」とは「説明」でもなければ「感情をあらわにする事」でもありません。
感情のままに無駄口を叩くより、短い詩の方が表現されています。
スマートな公式より、良い建築の方が表現されているものが多いです。
「表現」に含まれる問題は、「形式」……つまり「技術」と「表し方」です。
ここでいう「技術」とは鍛練から生み出されるものではなく、適切な処理が施されているかどうか、です。
アートに置いて求められているのは、ある種の感動であり、直感的な……或いは体験的な……言い様の無い感覚です。
それは、視覚的であっていいでしょう、聴覚的であっても、触覚的でも、理性的であっても構いません。
そのどれをも全て満たしても構いません。
これらを確実に伝える為には、感情のままでは無理なのです。
かといって説明では切り詰め過ぎています。
「表現」とは何か?
ここでは一旦「感情」と「説明」を両方とも切り捨てて考える事をおすすめします。
原因を探す事は、実に困難なことだ。
ある事が現実に起こった時、直接因を見つけだす事は難しくはない。
しかし、“本当の原因”というのがあるとするならば、それを探す為には直接の原因だけでは足りない。
例えば、サッカーを例にとってみよう。
ゴールを決められてしまった、としよう。
誰が悪い?
キーパーか?
だが、抜かれたディフェンダーも悪い。
いや、それ以前にボールを取られた者が悪い。
オフェンスが動いてなかったから悪いのかもしれない。
点を取っておれば、精神的に軽くなってキーパーもやすやすと動けたかもしれない。
その前に監督の采配が悪かった。
いいや、練習自体が悪かった。
ではチームコンセプトが悪いのか?
だとすればチームそのものが……
以下、サッカー自体、スポーツ自体、と延々に続くだろう。
それは“広がり”で見れば互いに関連しあっているだろうし、時間軸で見れば連鎖している。
では原因は永遠に繋がり続く連鎖なのだろうか?
悪に関する原因を求めると、私達にはありがたい事にその鎖を止める事ができる。
いや、存在論でさえ止める事ができる。
それは神や悪魔というものによってである。
神を善や創造の原因にする。
あるいは悪魔を悪や消滅の原因にする。
世界の原因を探ろうとした時に、そこに善悪を関わらせると、世界は神的なものを求めざるをえなくなる。
自然哲学が問題にするのは、倫理よりも世界だった。
ところで、その時代から一足飛びに三世紀に行くと……プラトンもアリストテレスもイエスも死んでいるのだから……世界の原因に善悪を関わらざるをえなくなっていた。
世界に対する自分……私がすっきりと幸福になれない原因はなんだ?
私が悪いのか、世界が悪いのか?
私が悪いのか、神が悪いのか?
しかし、神と世界は分離できないのだった。
神が世界を作り、私も作った。
では世界が悪かろうが、私が悪かろうが、結局の原因は神にあるのか?
そう、原因論に唯一神を持ち出すと、あらゆる原因は終局的に神に起因する事になる。
私が不幸である事も、今朝鼻血を出した事も、美味しい葡萄を食べた事も、幸福である事も、あらゆる原因は神である。
ところが、そうするともはや神と言うものは無化されることになる。
神がどうあれ全ての原因なのだ。
私を含むあらゆるものの起因であり全てに関わっているのであったら、まったくかかわりがないのと大差はない。
神が善悪を全て支配しているのであれば、この不幸な世界に対しての責任も神にある。
責任を分離せねばならなかった。
つまり、悪魔に悪の原因を分担させねばならなかった。
神と悪魔が似ているのは、その所為だ。
ある事が現実に起こった時、直接因を見つけだす事は難しくはない。
しかし、“本当の原因”というのがあるとするならば、それを探す為には直接の原因だけでは足りない。
例えば、サッカーを例にとってみよう。
ゴールを決められてしまった、としよう。
誰が悪い?
キーパーか?
だが、抜かれたディフェンダーも悪い。
いや、それ以前にボールを取られた者が悪い。
オフェンスが動いてなかったから悪いのかもしれない。
点を取っておれば、精神的に軽くなってキーパーもやすやすと動けたかもしれない。
その前に監督の采配が悪かった。
いいや、練習自体が悪かった。
ではチームコンセプトが悪いのか?
だとすればチームそのものが……
以下、サッカー自体、スポーツ自体、と延々に続くだろう。
それは“広がり”で見れば互いに関連しあっているだろうし、時間軸で見れば連鎖している。
では原因は永遠に繋がり続く連鎖なのだろうか?
悪に関する原因を求めると、私達にはありがたい事にその鎖を止める事ができる。
いや、存在論でさえ止める事ができる。
それは神や悪魔というものによってである。
神を善や創造の原因にする。
あるいは悪魔を悪や消滅の原因にする。
世界の原因を探ろうとした時に、そこに善悪を関わらせると、世界は神的なものを求めざるをえなくなる。
自然哲学が問題にするのは、倫理よりも世界だった。
ところで、その時代から一足飛びに三世紀に行くと……プラトンもアリストテレスもイエスも死んでいるのだから……世界の原因に善悪を関わらざるをえなくなっていた。
世界に対する自分……私がすっきりと幸福になれない原因はなんだ?
私が悪いのか、世界が悪いのか?
私が悪いのか、神が悪いのか?
しかし、神と世界は分離できないのだった。
神が世界を作り、私も作った。
では世界が悪かろうが、私が悪かろうが、結局の原因は神にあるのか?
そう、原因論に唯一神を持ち出すと、あらゆる原因は終局的に神に起因する事になる。
私が不幸である事も、今朝鼻血を出した事も、美味しい葡萄を食べた事も、幸福である事も、あらゆる原因は神である。
ところが、そうするともはや神と言うものは無化されることになる。
神がどうあれ全ての原因なのだ。
私を含むあらゆるものの起因であり全てに関わっているのであったら、まったくかかわりがないのと大差はない。
神が善悪を全て支配しているのであれば、この不幸な世界に対しての責任も神にある。
責任を分離せねばならなかった。
つまり、悪魔に悪の原因を分担させねばならなかった。
神と悪魔が似ているのは、その所為だ。
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