え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
国立西洋でやっているムンク展。
中々良いです。
企画も作品も、おもしろいですから、行って損はしないと思う。
エドヴァルト・ムンク……1863年にノルウェーのオスロ、当時の名前でクリスチャニアに生まれた。
ヴァイキング、フィヨルド、白夜、雪、杉、しかし近代のきざはしは勿論そこにあった。
確かにノルウェーは欧州史にとって特別な役割は果していない様に見える、ヴァイキングを除いて。
しかしフィレンツェ、パリ、ロンドンの各々の成果……すなわち、ルネサンス、フランス革命、産業革命……と関わりあいなく近代都市化されていないなんてわけはなかったが、田舎でもあった。
時は十九世紀末。
あの時は文化の中心はフランスだった。
いや、ヨーロッパの中心は、と言い換えても良い。
ドイツもイタリアもまだ完成していなく、オーストリア、トルコは弱体化していたし、イギリスはアメリカと小競合いした後だったはずだ。
ともあれ、機械と進歩の輝かしい躍進を胸に抱き人々はパリへ向かった。
クリスチャニアで生を受けた軍医の息子は、世紀末の風の中で確かに時代の匂いに浸れただろう。
しかし、彼は光ではなく、影をも……。
彼の周りにいる「病、狂気、死」がゆりかごの「天使」だった。
以来、それは彼に付きまとった。
母の死、姉の死、妹の狂質、父は憂鬱で頑固だった。
1880年になると、ノルウェー人イプセンは「人形の家」を書いて、新しい女を創造した。
しかし、考えてみれば、このノラという近代的で自立した、家庭から飛び出した女性は、高々その程度でもあり、止めどない自由への一歩にも見える。
そのノルウェーだ、イェーゲルがいる。
彼は前衛グループ「クリスチャニア・ボヘミアン」というものを組んだ詩人・思想家だったそうだ。
自由、前衛、十九世紀末……容易にデカダンスへと傾きそうな言葉だ。
実際そうだった。
ノルウェーではムンクには狭すぎた、素朴すぎた。
時代は既に印象派さえ最先端として定着していたのだから。
印象派は具体的な新しい絵画であり、最先端だった。
ゴッホはムンクの10歳年上だ、勿論知られず売れずだが。
世紀末。
ひたすら光を追い求めた印象派の影もそこにあったはずだ。
栄光のパリ万博へ突き進む足並みを見つめる邪眼もあったろう。
エリファス・レヴィは既に死んでいたが、ブーラン、若きガイタ、ペラダン、ユイスマンスは新世紀に突っ込むのを見ていた。
近代オカルティズムは生まれていたのだ。
ボードレール、そしてマラルメ。
後にムンクはマラルメとも会っている。
明らかにその気風は暗鬱として怪しげだった。
ムンクは確かにポスト印象派だった。
彼の描く色彩は強く、明るく、影は青紫だったし混色は少ない、形態も素描的である。
だが、彼の揺らめくようなリズムはどうしたことだろう。
ゴッホは良く“うねり”を指摘されるが、ムンクも良くうねっている。
この二人は時代的には非常に近い。
しかも二人は世紀末的だ。
例えば、二人とも『星月夜』という作品を描いている。
夜の星月を印象派が描くのは、たしかに珍しいが、それ以上に考えてもらいたい。
ゴッホの星月夜は果たしてポスト印象派なのか?
それとも象徴主義的なのか?
あきらかにそこに描かれているのは、眼で見たままの印象を再現する事ではない。
心象であり、宗教的魔術的……もし許されるならコズミックな神話さえ何か感じるかもしれない……である。
ムンクも同じく。
しかし、ムンクは魔術的と言うよりも精神分析的、おとぎ話的である。
それは神話になるその根っこの部分に近い。
人間の精神の各々の面相、もっぱら暗い部分が多いが、それの反映である。
ちなみにフロイトは1850年代の生れであるし、心理学は既にあった。
『不安』『絶望』『叫び』といった一群の作品がある。
フィヨルドは揺らめいている。
町は輪郭が暗い中に黒く取られているばかりだ。
空は赤い、恐ろしく赤い。
そして橋も真っ赤に染まっている。
橋はうねった全体に対して、切り立つ様に左へ向かう、なんという奇妙な橋だろう。
吸い込まれるように当て所なく消えていく橋だ。
しかし揺らめきに対して限りなく均衡を保っている直線でもある。
この構図は何か奇妙だ。
「叫び」で男は自然を貫く果てしない、終りの無い叫び声を聞いている。
耳をつんざかれている。
二人の男は、彼を無視して左端へ消えていく。
「不安」では橋に人がいる、それも大勢。
皆が私を見る。
しかし、その眼は曖昧だ。
いやムンクの描く人間はしょっちゅう曖昧な眼をしている。
見られているのはわかるのだが、捕らえ所なぞない、黒目だけ浮かび上がった眼や、ぼんやりと眉根の影に隠れた眼。
それに顔さえ曖昧に消えてしまう時がある。
はっきりとした表情でなく、何かの感情だけを(多くは快楽か絶望)精々匂わせる程度で終える。
不安での顔ははっきりとこちらを注視している。
無表情である。
ムンクにしては珍しいくらいに絵具が厚く塗られ、赤い大気も抜けずに留まり、構図もより緊密で狭苦しく、息が詰まる。
「絶望」で、それはぽかんとする。
大気は抜けるし、絵具は薄くなる。
男は俯いて絶望する。
ゆっくり身体を後ろに傾けるのかもしれない。
画面の右端に両手とからだが消えていく。
ムンク展を見に行くなら、一番最初のフロアをじっくりと……もし出来るなら、閉館ぎりぎりに。
3時に入ってじっくり見回って5時15分に一番最初のフロアに戻ってみたら、いいのが沢山見れた。
長居するつもりがないのなら、4時頃に入って閉館間際を狙うと良い。
「声」「吸血鬼」「灰」「メタボリズム」「絶望」「不安」「白と赤」「病める子」などの有名作あり。
一つの思想としての部屋を作る……生命のフリーズというのをそう見るという良い展示だ。
中々良いです。
企画も作品も、おもしろいですから、行って損はしないと思う。
エドヴァルト・ムンク……1863年にノルウェーのオスロ、当時の名前でクリスチャニアに生まれた。
ヴァイキング、フィヨルド、白夜、雪、杉、しかし近代のきざはしは勿論そこにあった。
確かにノルウェーは欧州史にとって特別な役割は果していない様に見える、ヴァイキングを除いて。
しかしフィレンツェ、パリ、ロンドンの各々の成果……すなわち、ルネサンス、フランス革命、産業革命……と関わりあいなく近代都市化されていないなんてわけはなかったが、田舎でもあった。
時は十九世紀末。
あの時は文化の中心はフランスだった。
いや、ヨーロッパの中心は、と言い換えても良い。
ドイツもイタリアもまだ完成していなく、オーストリア、トルコは弱体化していたし、イギリスはアメリカと小競合いした後だったはずだ。
ともあれ、機械と進歩の輝かしい躍進を胸に抱き人々はパリへ向かった。
クリスチャニアで生を受けた軍医の息子は、世紀末の風の中で確かに時代の匂いに浸れただろう。
しかし、彼は光ではなく、影をも……。
彼の周りにいる「病、狂気、死」がゆりかごの「天使」だった。
以来、それは彼に付きまとった。
母の死、姉の死、妹の狂質、父は憂鬱で頑固だった。
1880年になると、ノルウェー人イプセンは「人形の家」を書いて、新しい女を創造した。
しかし、考えてみれば、このノラという近代的で自立した、家庭から飛び出した女性は、高々その程度でもあり、止めどない自由への一歩にも見える。
そのノルウェーだ、イェーゲルがいる。
彼は前衛グループ「クリスチャニア・ボヘミアン」というものを組んだ詩人・思想家だったそうだ。
自由、前衛、十九世紀末……容易にデカダンスへと傾きそうな言葉だ。
実際そうだった。
ノルウェーではムンクには狭すぎた、素朴すぎた。
時代は既に印象派さえ最先端として定着していたのだから。
印象派は具体的な新しい絵画であり、最先端だった。
ゴッホはムンクの10歳年上だ、勿論知られず売れずだが。
世紀末。
ひたすら光を追い求めた印象派の影もそこにあったはずだ。
栄光のパリ万博へ突き進む足並みを見つめる邪眼もあったろう。
エリファス・レヴィは既に死んでいたが、ブーラン、若きガイタ、ペラダン、ユイスマンスは新世紀に突っ込むのを見ていた。
近代オカルティズムは生まれていたのだ。
ボードレール、そしてマラルメ。
後にムンクはマラルメとも会っている。
明らかにその気風は暗鬱として怪しげだった。
ムンクは確かにポスト印象派だった。
彼の描く色彩は強く、明るく、影は青紫だったし混色は少ない、形態も素描的である。
だが、彼の揺らめくようなリズムはどうしたことだろう。
ゴッホは良く“うねり”を指摘されるが、ムンクも良くうねっている。
この二人は時代的には非常に近い。
しかも二人は世紀末的だ。
例えば、二人とも『星月夜』という作品を描いている。
夜の星月を印象派が描くのは、たしかに珍しいが、それ以上に考えてもらいたい。
ゴッホの星月夜は果たしてポスト印象派なのか?
それとも象徴主義的なのか?
あきらかにそこに描かれているのは、眼で見たままの印象を再現する事ではない。
心象であり、宗教的魔術的……もし許されるならコズミックな神話さえ何か感じるかもしれない……である。
ムンクも同じく。
しかし、ムンクは魔術的と言うよりも精神分析的、おとぎ話的である。
それは神話になるその根っこの部分に近い。
人間の精神の各々の面相、もっぱら暗い部分が多いが、それの反映である。
ちなみにフロイトは1850年代の生れであるし、心理学は既にあった。
『不安』『絶望』『叫び』といった一群の作品がある。
フィヨルドは揺らめいている。
町は輪郭が暗い中に黒く取られているばかりだ。
空は赤い、恐ろしく赤い。
そして橋も真っ赤に染まっている。
橋はうねった全体に対して、切り立つ様に左へ向かう、なんという奇妙な橋だろう。
吸い込まれるように当て所なく消えていく橋だ。
しかし揺らめきに対して限りなく均衡を保っている直線でもある。
この構図は何か奇妙だ。
「叫び」で男は自然を貫く果てしない、終りの無い叫び声を聞いている。
耳をつんざかれている。
二人の男は、彼を無視して左端へ消えていく。
「不安」では橋に人がいる、それも大勢。
皆が私を見る。
しかし、その眼は曖昧だ。
いやムンクの描く人間はしょっちゅう曖昧な眼をしている。
見られているのはわかるのだが、捕らえ所なぞない、黒目だけ浮かび上がった眼や、ぼんやりと眉根の影に隠れた眼。
それに顔さえ曖昧に消えてしまう時がある。
はっきりとした表情でなく、何かの感情だけを(多くは快楽か絶望)精々匂わせる程度で終える。
不安での顔ははっきりとこちらを注視している。
無表情である。
ムンクにしては珍しいくらいに絵具が厚く塗られ、赤い大気も抜けずに留まり、構図もより緊密で狭苦しく、息が詰まる。
「絶望」で、それはぽかんとする。
大気は抜けるし、絵具は薄くなる。
男は俯いて絶望する。
ゆっくり身体を後ろに傾けるのかもしれない。
画面の右端に両手とからだが消えていく。
ムンク展を見に行くなら、一番最初のフロアをじっくりと……もし出来るなら、閉館ぎりぎりに。
3時に入ってじっくり見回って5時15分に一番最初のフロアに戻ってみたら、いいのが沢山見れた。
長居するつもりがないのなら、4時頃に入って閉館間際を狙うと良い。
「声」「吸血鬼」「灰」「メタボリズム」「絶望」「不安」「白と赤」「病める子」などの有名作あり。
一つの思想としての部屋を作る……生命のフリーズというのをそう見るという良い展示だ。
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