え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
日本語の曖昧さ故に、私達の目の前には「表現」「芸術」「美術」などの言葉が類似して転がっています。
どのように区別するかは、人それぞれと言うところがあります。
一般的に「芸術」はより広範な>感動的なものについて。
「美術」は専ら視覚的表現について。
「表現」は表れ方や表し方について。
と区別されているようです。
ではアートの「表現」……この事に付いて、考えるのを手始めとしましょう。
『表現』とは「Explanation(説明)」ではなく「Expression(表現)」だと思われています。
前者には意味的なものだけ、後者には精神的なものが読み取れます。
では、後者が正しいのか?
しかし、考えてください。
私達が考えているのはアートに関してのはずです。
鑑賞者の心的動揺、感動を誘うのが必ずしも何らかの表現だとは限りません。
説明的に述べたとしても、そこにアーティスティックなものを見る事はあります。
「公理」は時として非常に美しい。
一方で感情の溢出が必ずしも芸術性を帯びてるとは限りません。
この事について、詳しく見るべきです。
例えば、動物が感情を剥き出しにして威嚇するとしましょう。
それは表現です。
感情的な表現です。
しかし、同時に記号的な意味もあります。
その動物がどう言う感情であり、これからどういう態度に出ようとしているのか、という。
その威嚇行為は芸術になりえるでしょう、しかし、常になり得るわけではありません。
我々が呆れた時にポカンとする顔や肩をそびやかしたりする事は、アートとは関係ありません。
あえて言えば、それは素材です。
同じ様に精神的なものを全て吐露したとしても、それがアートになるとは限らないのです。
反対に、説明的な言葉もアートであり、ないと言えるでしょう。
私達が何かを伝えようとした時、できるだけはっきりと分かりやすい形にしようとするものです。
お互い(伝える側、伝えられる側)に同様のコードを成立させようとして、そのコードに沿って伝えます。
その最たるものが、科学的記述や数学的記述です。
まったくもって“伝える”ということはアートにとって重要な事です。
鑑賞者になんらかのアプローチをしていると言う限り、何かを伝えられているか、そうでないか、は重要な事です。
そういった説明的記述はある意味ではアートに対峙する表現でもあります。
しかし、それでもそこにまつわるものが感動と関係するかと言えば、別です。
説明は説明でしかない事が往々としてあります。
「表現」とは「説明」でもなければ「感情をあらわにする事」でもありません。
感情のままに無駄口を叩くより、短い詩の方が表現されています。
スマートな公式より、良い建築の方が表現されているものが多いです。
「表現」に含まれる問題は、「形式」……つまり「技術」と「表し方」です。
ここでいう「技術」とは鍛練から生み出されるものではなく、適切な処理が施されているかどうか、です。
アートに置いて求められているのは、ある種の感動であり、直感的な……或いは体験的な……言い様の無い感覚です。
それは、視覚的であっていいでしょう、聴覚的であっても、触覚的でも、理性的であっても構いません。
そのどれをも全て満たしても構いません。
これらを確実に伝える為には、感情のままでは無理なのです。
かといって説明では切り詰め過ぎています。
「表現」とは何か?
ここでは一旦「感情」と「説明」を両方とも切り捨てて考える事をおすすめします。
どのように区別するかは、人それぞれと言うところがあります。
一般的に「芸術」はより広範な>感動的なものについて。
「美術」は専ら視覚的表現について。
「表現」は表れ方や表し方について。
と区別されているようです。
ではアートの「表現」……この事に付いて、考えるのを手始めとしましょう。
『表現』とは「Explanation(説明)」ではなく「Expression(表現)」だと思われています。
前者には意味的なものだけ、後者には精神的なものが読み取れます。
では、後者が正しいのか?
しかし、考えてください。
私達が考えているのはアートに関してのはずです。
鑑賞者の心的動揺、感動を誘うのが必ずしも何らかの表現だとは限りません。
説明的に述べたとしても、そこにアーティスティックなものを見る事はあります。
「公理」は時として非常に美しい。
一方で感情の溢出が必ずしも芸術性を帯びてるとは限りません。
この事について、詳しく見るべきです。
例えば、動物が感情を剥き出しにして威嚇するとしましょう。
それは表現です。
感情的な表現です。
しかし、同時に記号的な意味もあります。
その動物がどう言う感情であり、これからどういう態度に出ようとしているのか、という。
その威嚇行為は芸術になりえるでしょう、しかし、常になり得るわけではありません。
我々が呆れた時にポカンとする顔や肩をそびやかしたりする事は、アートとは関係ありません。
あえて言えば、それは素材です。
同じ様に精神的なものを全て吐露したとしても、それがアートになるとは限らないのです。
反対に、説明的な言葉もアートであり、ないと言えるでしょう。
私達が何かを伝えようとした時、できるだけはっきりと分かりやすい形にしようとするものです。
お互い(伝える側、伝えられる側)に同様のコードを成立させようとして、そのコードに沿って伝えます。
その最たるものが、科学的記述や数学的記述です。
まったくもって“伝える”ということはアートにとって重要な事です。
鑑賞者になんらかのアプローチをしていると言う限り、何かを伝えられているか、そうでないか、は重要な事です。
そういった説明的記述はある意味ではアートに対峙する表現でもあります。
しかし、それでもそこにまつわるものが感動と関係するかと言えば、別です。
説明は説明でしかない事が往々としてあります。
「表現」とは「説明」でもなければ「感情をあらわにする事」でもありません。
感情のままに無駄口を叩くより、短い詩の方が表現されています。
スマートな公式より、良い建築の方が表現されているものが多いです。
「表現」に含まれる問題は、「形式」……つまり「技術」と「表し方」です。
ここでいう「技術」とは鍛練から生み出されるものではなく、適切な処理が施されているかどうか、です。
アートに置いて求められているのは、ある種の感動であり、直感的な……或いは体験的な……言い様の無い感覚です。
それは、視覚的であっていいでしょう、聴覚的であっても、触覚的でも、理性的であっても構いません。
そのどれをも全て満たしても構いません。
これらを確実に伝える為には、感情のままでは無理なのです。
かといって説明では切り詰め過ぎています。
「表現」とは何か?
ここでは一旦「感情」と「説明」を両方とも切り捨てて考える事をおすすめします。
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映画、音楽、文学。と至って普通の趣味。 ああ、あと最近は自転車レースも好き
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