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え、まあ、趣味とか雑事とかだぜ?
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おひさ。
というわけで最近読んだほんの読書感想文であります。
ブッツァーティ「神を見た犬」
ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」
ボルヘス「砂の本」
宮沢賢治「風の又三郎」
ラディゲ「肉体の悪魔」

以下、ネタバレ有りだぜ。

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反対語というのがあるじゃないですか。
アントニム。

同一の言語のなかで、その持つ意味が反対の関係にある語。「出席⇔欠席」のように中間の段階が考えられないもの、「大きい⇔小さい」のように中間の段階のあるもの、「親⇔子」のように両者が相互関係にあるものなどがある。反義語。反意語。反対語。対語。アントニム。

でも、あれって本当なんですかね?

例えば、伝統的に「火」と「水」は相克関係で、反対のようですが、どうなんでしょう?
「火」は燃焼にともなう『現象』ですが、「水」は『物質』ですよね。
正しく反対とは言えないような気がする。
水素ガスも燃焼しますしね。

調べてみたら「円陣」の反対語は「方陣」だそうです。
なぜ?
「丸」の反対は「四角」?
反対ではないんじゃないの?
全然別物のような気がする、並列するようなものですよね。

基本的には「反対」ってのは、私達が思っているだけの場合がありますよね。
月と太陽とか。
別物にも関わらず、そう思い為してしまう。
男と女はどうだろう、反対と言うよりある種族の別の様態でしかない。これが例えば、もう一つの性があって三竦みなら反対とは言わないだろう。
じゃんけんの「グー」の反対は?と言われて答えられないのと同じだ。

なんとなく疑わしいものじゃない?
反対語って。
怪談で『牡丹灯篭』というのがある。

三遊亭円朝が割と早い時期から演目に入れ出したので、元は『剪灯新話』という中国明代の怪異譚のうち『牡丹灯記』というものを翻案し換骨奪胎作り直したものがそれである。

以下は内容にも触れるので
BlogPet 今日のテーマ 春ですね~
「春だなぁと思うのはどんな時?」
朝寝は春が一番、春は朝寝に限る……などと言うは小原庄助さんみたいなぐうたらに違いないけれど、孟浩然という有名な詩人のおかげで興が乗るわけ。

春眠 暁を覚えず
処処 啼鳥を聞く
夜来 風雨の声
花落つることを知る多少

ざっくりと訳してしまえば「春は朝が来てもうとうと。鳥がないてる。昨日雨風があったから花もいくらか落ちただろうなぁ(でも布団からは出ない)」って感じでしょうか。
暖かいので布団の中でころころしながら、鳥鳴いてるわぁ、とか言って。でも布団から出ないで目は閉じたまんま。昨日の雨でうっすら濡れた土の匂いが鼻腔に触れて、ああ、そういえば昨日雨降ったし、花散ってるだろうなぁ、と閉じた目に花の散る絵を思い描いている。
そんな感じ。
肌も耳も鼻も使ってるのに、目には幻像が映っている。
それが花の散る寂寥感とホカホカ陽気と混じってて気持ちよいのだろう、と思っています。
あくまで個人的な考えですが。
僕はずっとこの詩を春雨のある、わりと春の若い時期、ちょうど桜の時期を思っていたんですが、そうではないようです。
実際には晩春の花が散って行く時期なんだとか。花散る春の寂しさを歌ったんだということです。
てっきり「朝寝は最高だぜ」って詩だと思ってました。
同人ゲーとかとシェアワールドの話です。長いです。

『シェアワールド』とか『シェアードワールド』とか呼ばれるものがあります。
世界をシェアする。
つまり、幾つかの作品の中で世界観を共有する、と言うことです。

これはパラレルワールドじゃありません。
地平面的にも年表的にも一つにまとめて矛盾なく、或いは矛盾が出てもそれを回収できる仕掛けがなければなりません。
だから、単なる二次制作の同人活動はシェアワールドとは言いきれないようです。

僕が知っている有名なものは、やはり『クトゥルー神話』(『ク・リトル・リトル神話』)ですね。
ラブクラフトが利用した設定をダーレスが神話大系としてまとめたものです。
これなんかはそれこそダーレスからデモンベインから佐野史郎まで世界観をシェアして作品作りをしていますね。
それに、クトゥルー神話の古き神々の在り方や考え方を援用すると、ラブクラフト以前に書かれたマッケンの『パンの大神』なんかも「あれはクトゥルー神話だ」として世界観の中に飲み込むことが出来ます。
或いは「プラトンが著作の中で『アンドロギュヌス』について語っているが、あれはクトゥルー神話大系の一部に入らないか?」とか言う遊びも出来るわけです。
クトゥルー神話事典なんてものには歴史年表までついています。
似たようなのに図説だのガイドブックだのエンサイクロペディアだの、なんともすごい。
もうこれは他の追随をゆるさないものがある。


多分、我々は奇跡的な出来事が嫌いではない……好きだと言う言い方でも良い。
この場合の「奇蹟」は、別に宗教的なそれでもなく、自然法則をねじ曲げるようなものをさすわけではない。
「極まれ」とか「珍事」とか言い換える事ができるような意味だ。
珍しい偶然が重なったような場合を我々は好む。
例えば、ホール・イン・ワン。
ただホール・イン・ワンするだけではなくて、最後の最後で逆転したりするとなお良い。
他にも、どこかで落としたラブレターを偶々意中の人が拾ったり、十階から落っこちて偶々何かが緩衝材になって助かったりと、まあそういった奇蹟だ。
そういう話を聞くと感心する。
日常の雑事よりはよほど傾聴にあたいするんじゃないかな、と思ったりする。
ところで、こういったものが好まれるのは「珍しさ」と「ドラマ性」に因るのではないかと思う。
言うまでもなく我々は平凡なことよりも珍しい事の方が好きだ。
元々、人間は変化を好む。
単調な反復作業よりも複雑で有機的な作業の方に面白さを感じるし、白一色の画面よりも様々な形体や色彩があった方が良い、一音が反復する音楽よりもメロディがあった方がよい。
そういった人間の好む“変化”ということの、特に際立った(或いは過剰な)ものが珍事と呼ばれる。
また「珍しい」ということには、「希少性」「唯一性」「一回性」という価値が含まれている。
この希少で一回的な価値というのは、例えば骨董品や芸術作品などにも共通するもので、骨董品は出来の良し悪しや好悪ではなく真贋が問われるし、芸術作品では例えば版画などはナンバリングをして摺ったら原版を廃棄したりすることもある。
とかく、我々は「珍しい」と言う事を大事にして、何か重要なものだと思うものである。
さてそれが何故か? と言われると、私には力不足なので、まあそう言うものだと思う事にして欲しい。
それから、「ドラマ性」と言うのは簡単で、ある種の逆転や大きな変化の事を言う。
奇跡的な偶然と言うのは、現状からほとんど逆転するかのような変化があるものだ。
それが大変人の好みにかなう。
出来事の変化の大きさは、それだけ人の心を刺激する。
……ところで、ここまでは現実の、いわゆる「実体験」とか「体験談」というくくりに入る事で話してきた。
しかし、これが物語になったらどうだろう。

物語上の奇蹟……(というと、やはり聖人の話を思い浮かべるだろうがそれではない)……というのは、時によっては避けられる。
特に物語の大詰めに用いられるのはアリストテレスの時代からあまり上等な手とされていない。
デウス・エクス・マキーナと言えば、御都合主義の代名詞みたいなものだ。
安易な偶然や奇蹟は物語を軽薄にするし、読者は納得して良いのかどうか迷うだろう。
理性に従った「起こるべくして起こった」解決に対して我々が安心するという話は、『詩学』で見られた通りである。
だが、「体験談」となると話は変わる。安易な奇蹟でも感嘆する。
それは始めからノンフィクションだという前提で読んでいるからだ。
まず上位の分類として「現実」「ノンフィクション」というのが頭にある、だからその構造のうちでは起こりそうにない事が起こっても感嘆できる。
しかし、「フィクション」となると起こり得ない事が起こった場合、すぐさま読者は嗅ぎ付ける。これは作り話であると言う事を。

奇蹟と言うのは、一種アンリアルの匂いがする。
現実にアンリアルが介入するとなると、それは奇跡的な物語になる。
体験談と言うのは、その分類によって予めリアリティという武器を持っているから、そこに奇蹟が入ってきても耐えうるのだろう。
小説の場合、それを支えるリアリティと言うものは、後天的にしか得られないし、読者も進んでリアリティを積み重ねて行く作業に加わろうとする。
その上、小説には物語や筋と言うものがあることを既にして知っている。
だからアンリアルなものが簡単に入って来ると、読者は裏切られて壊されたような気になるのではないだろうか。
とはいえ、リアリティと筋という二点に立って考えれば、序盤に奇蹟的な事件を持ってくるのはさして問題にならないはずだ。
まだ構築や筋が立っておらず、これからという時であるし、元々我々はそう言うものが好きなのであるから。
だから、極一般的に見られる物語には、そういう構造をとったものが少なくない。
例文 『彼は、手が8本だった』

言葉には色々と情報が含まれている……と、されている。
しかし、これは正しくない。
言葉に情報を“含ませている”と言った方が正しい。

我々は『彼』という言葉を見た時に、大体こう思う。
「人間、男、他者」
heに当たる人物を想像する。
この先入見を、もう少し分析すると「人間の男」を既に知っているところから話が始まる。
「人間の男」とは何か? というところからは、始まってはいない。
既に「人間の男」と言う認識の上に成り立っている……というのはどう言う事か?
「人間の男」と言うのは、外見的には腕が二本あって、二本の足で直立歩行が出来る生物だ。
中心からほぼ左右対称の形をしている。
大体、全体のタテヨコが5:1くらいの比率だ。
頭には眼が二つ、鼻は二つ穴が開いていて、その下に口が一つ、両側に耳が二つ。
それから……
と、この説明は延々と続く。
しかし、これは説明をしているようで説明にはなっていないのではないか?
だって「腕」や「足」や「頭」なんかという人間に由来する名詞を用いているのだから。
今度は「腕」や「足」の説明をしなければならない。
こうなると、絶えず“本質”の周りを細分化を重ねながらぐるぐる回っているだけになってしまう。
我々が「彼」と言うとき、もうおおよその抽象化はされている。
どんな顔か体型かは知らないが、「人間」と「男」ということは知っている。
経験にせよ先見にせよ、抽象化はされているらしい。
ということは、『言葉』というのは、そもそも抽象化する事そのものであるようだ。

しかしこの「、」というのはなんだろう?
ちょっと引用をしてみたい

 私たちは、文の終りに「。〔句点〕」、文中の区切りには「、〔読点〕」を使って文章を書いている。しかし、このような使い方が定着したのは明治三九年、文部大臣官房図書課が『句読法案』を発表してからのことである。

 飛田良文 1992 『東京語成立史の研究』
                    』
句読点研究会HPから孫引き。
「、」は西洋の書式に倣って導入されたものである。
文章に厳密さをもたらすためでもある。
しかし、これは文章にリズムをもたらし、呼吸の間をもたらしもした。
ちょっと例えに描写してみよう。
 「奥の間のテレビに蛍光灯のぼんやりと影が映えて潰れた画面がかえって明るいような暗いような妙な調子になっているテーブルの黒い塗り箸は使い込まれてといって五年に満たない新物であるが散々齧られて光沢もなく影よりも暗い」
我家の様子である。
これはこれで読めない事もないが、読点を用いると語のリズムが変わるはずだ。
 「奥の間の、テレビに蛍光灯のぼんやりと影が、映えて潰れた画面がかえって明るいような暗いような妙な調子になっている、テーブルの黒い塗り箸は使い込まれて、といって、五年に満たない新物であるが、散々、齧られて光沢もなく影よりも、暗い」
これはどういうことだろう。
私は文章中のリズムをコントロールした事になる。
文章は専ら頭の中で詠われているものだ。
ある調子でもって「音読」しているのが普通だ。
「、」は音読のリズムを変える事ができるから、それそのものは単に自立して言語化はされないけれども言語的に作用するもののようだ。
「!」や「?」も同じだ。
後から海外を倣って取り入れられたものだとは言え、これは音読性という文章の必然に十分な必要をもっている。

で、「手が8本だった」
「彼」は人間の男じゃあないのだろうか?
これは一体、何の間違いだ?
まずはちょっと自分の手を見て頂きたい。……
見ましたか?
一体、どこを見ましたか?
掌なんじゃないですか?
そうでしょう?私が言いたかったのは、「彼には指が8本しかない」という事だったんです。
これは間違いか?
間違いだとしたらどこが間違っているのだろう?
私は理屈として「人は手と言われた時に掌を見る→手と掌は同義→常識的に考えて腕が8本あるはずはない→故に指が8本だと思うだろう」と考えた。
この理屈自体が間違っているとは思わない。
しかし、「通じなかった」だろう。
どうやら言語による抽象化のプロセスは、普遍的ではないらしい。
私の抽象化と一般の抽象化は対応していないのだ。
言葉が抽象化作業を行なう場合、決して世界に対応して抽象化作業を行なっているわけではなく、あくまで自分の中だけで行なわれているようだ。
そうするとこの抽象化作業によって「言語化する=人に伝えようとする」のは、実際には自己内完結でしかなく、人に伝わっているとは必ずしも言えない。
しかし、この話は現実的じゃない。
私が「8」と書けば、「ああ、8」とその数字が意味するところは伝わっているように見える。
これは伝わっているのか?
伝わっていないのか?
言語によっても我々が自己内完結しか出来ないという前提があるなら伝わっていないということになる。
しかし、相手も「ああ」と言い、同じ認識を得るらしいとなれば、どうやら相関関係はあるらしいのだ。
私の「8」が他者に伝わっているわけでないが、他者の中に「8」という観念を呼び起こす役にはたっているらしい。
注意しなければならないのは、彼我の「8」は、同じものが伝わったわけでないということだ。
あくまで彼の中の「8」を呼び起こしただけ。
林檎に代えて例えたほうが良かっただろう。
彼の林檎と私の林檎は同じ「林檎」という名詞だが、彼の持っている林檎と私の持っている林檎は別のサイズと形と存在であるだ。

言語に含まれているらしい、数々の了解は我々の認識にあたっている。
これは文章を書く上で重大な問題だ。
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